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2024年10月7日(月)に公開予定の記事は
高橋ちえ による インタビュー連載
「バンドじゅずつながり」!!
初回記事の冒頭部分はではこの様に語られています。
今は大々的に名前が知られていなくとも、登場したゲストをこの先、
振り返ってみた時に“ここで繋がってきたゲスト、今やすごいことになってるじゃん!”
となる…のを願って。
どの様なアーティストがこのコーナーに登場してくださるのでしょうか!?
楽しみが膨らんでいきますね!
第1回目のアーティストのご紹介!
ギター&ボーカル・金野一晟。
インタビュアーと同郷のバンドからスタートするのは憚られるところがあったが、
今年の夏に東京・下北沢でインディーバンドたちのライブを見に行った際、
出演者でもないのにFUNNY THINKのTシャツを普通に着ているお客さんがいたこと(その彼とはFUNNY THINKについて話し込んだこと)、
さらに彼らのライブを地元で見ることが多かった同じく今夏、
ライブが格段に良くなっているのを目の当たりにしたこと。
“同郷のよしみ”では決してなく、自信を持って堂々と今、
FUNNY THINKというバンドを世に推したい。
そんな彼らから始まり今後、続いて繋がっていく
次回以降のゲストにもどうぞ期待して欲しい。
今や全国各地でフェスが開催され、ライブハウスもある時代。
各地で独自の音楽シーンが芽吹いていることに加え、
サブスクの普及やインターネットを使った発信も可能な今の時代、
大都市に拠点を移すことなく活動を続けるアーティストも増えている。
首都圏では感じることのない、地方で吹いている風も
ふんわり感じたりできたら良いな、とも思いながら。
では、はじめていこう。
ーまずはご自身のバンド紹介からいきましょう。
“岩手を拠点に活動してる、3ピースロックバンド”です。
ー“岩手を拠点”と。
それはマストで言ってます。
結成したのは大船渡市、メインで活動しているのが盛岡市なので、
どちらとも言わずそのどっちも含めて“岩手”と言ってます。
ーでは、FUNNY THINKを結成した時のことを聞いていきましょうか。
2013年8月8日です。森(亨一/Dr)くんが“
本当はパンクの日(=8月9日)に結成したかった”ってずーっと言っていて、
その前日なので日付まで覚えてます。
元々、小っちゃい頃から親の影響で音楽が好きでした。
覚えてはないですけど幼稚園の祖父母参観で、
将来の夢を発表する時も“歌手になりたい”って言ってたみたいです。
「スズメバチ」と「ハナクソ」っていう曲を即興で作って、家族の前で歌ったりしてました。
中学生の頃、地元にTSUTAYAが出来て、
CDをレンタルして色んなバンドを知るうちに極めつけが、教育実習の先生に
Hi-STANDARD(以下ハイスタ)とNOFXを教えてもらって、ハマってしまって。
ハイスタのDVDを見て、ボーカルがやりたかったですけど
ピンでボーカルは当時、恥ずかしくて。
俺はギターを持ってギター&ボーカルで、
放課後よく一緒に遊んでた同じクラスの森くんに、
強引にドラムをやらせて結成しました。それが中3の時ですね。
ーそのタイミングで、ギターを初めて触ったの?
父親がギターコレクターみたいな感じでギターを持っていて、
小学校の低学年ぐらいから弾いてはいました。
T・レックスの「20th Century Boy」のイントロとか、
すぐ弾けるようになったのは覚えてます。
でもずっと野球をやってて、野球の方が一生懸命でしたね。
ースポーツ少年でしたか。
そもそも最初の原点として“音楽っていいな”と自分が思ったのは何でした?
アニメの主題歌コンピレーションに、
ASIAN KUNG-FU GENERATIONとかAqua Timez、
STANCE PUNKSとかの曲が入っていて。
小学校高学年の頃にまず日本のバンドの音に入った感じです。
父親は海外のパンク・ポップを聴いてて、
その良さが分からず日本のバンドを聴いてた感じでしたね。
ー使っているギターについても聞きましょうか。
岩手の先輩アーティストから、
今は使っていないギブソンのレスポール・スタンダードを譲り受けて使ってます。
実は今までも基本的にはレスポールしか使ってないんですよ、
親から借りて使っていたのもレスポール・スタンダードでした。
ーそれは何故?
やっぱり完全に、ハイスタ時代の横山健さんですよね。
(スイッチ部分に)ガムテープも貼ってました。
健さんは横と縦にガムテープを貼るらしいって
何かの雑誌で読んでそれも真似したり、
初期に使ってた健さんのレスポールに貼ってあるのと
似たステッカーを集めて同じように貼ったり。
高校生ぐらいの時は服装も真似して、健さんのコスプレもしてました。
ーかわいらしいエピソード。
そうやって大船渡でバンド・音楽を続ける中で、東日本大震災後に
大船渡にライブハウス(現・KESEN ROCK FREAKS/以下フリークス)が
出来たこともきっと大きいですよね。
そうですね。フリークスがなければ多分、
バンドをやるということにはならなかったと思いますし、
結成した年の秋にはフリークスでライブを演っているので。
ー中学生で既にライブハウスに立っているのね。
練習は当時、どうしていたの?
軽音部とかもなかったので、自分の家で練習するか
リアスホール(大船渡市)のスタジオを借りて練習するかなんですけど、
実家が着物屋で大きめの倉庫が空いていたので、
そこに集まってやってましたね。
ドラムセットはバンドを組む前に昔、
俺がギターじゃなくてドラムをやりたいって思ったことがあって
安いドラムセットがあったので、森くんはそれを叩いてました。
ー高校を卒業してからは進学で、盛岡に出ると。
進学(先を決める)よりも、
当時のメンバーとまず“どこでバンドを続けたいか”って話し合いました。
それで、高校生になってから毎年、盛岡に見に行っていた
「いしがきミュージックフェスティバル(以下いしがき)」がすごくデカくて。
いしがきに出たい、それが決定打でした。
the LOW-ATUSが出ていた時、
細美(武士/ELLEGARDEN、the HIATUS、MONOEYES)さん
とTOSHI-LOWさん(BRAHMAN、OAU)が、
盛岡のライブハウス(=クラブチェンジ)の社長の名前を
何回もMCで言っていたんですね。
だから、そこのライブハウスで演ってみたい。
それで、進学先としても仙台や東京っていう選択肢もあったんですけど、
盛岡に決めました。
ーそういう決め手でしたか。盛岡に来てからは?
まずメンバー3人全員で、
クラブチェンジの事務所に挨拶に行ったんです。
大船渡の時はフリークス側から声をかけてもらえてたんですけど、
盛岡のライブハウスでどうやってライブをすれば良いのかも全然知らなかったし、
アポイントを取るとかそういうのも知らなくて。
まずは一旦、クラブチェンジに行ってみよう、と。
そしたらたまたまスタッフの方が結構みんないまして。
パンチを出そう、と森くんに一発ギャグもやらせまして、
すぐにライブの予定が決まりました。
ー“森くんの一発ギャグ”はその当時からやっていたことでしたか。
その時は緊張していたのか、メチャクチャつまんなかったですけどね(一同笑)。
…インタビューはまだまだ続きます!
本編は【バディットマガジン電子ばん!】で!
本編は
サブスク電子マガジン、
『バディットマガジン電子ばん!』にてお読みいただけます。
2024年10月7日(月)、
12時にこちらにて公開します!
※時間になるまで非公開となります
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