【✨アーティストのわ✨】青江好祐〜人生のリハビリだった30代〜

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イチオシのアーティストを紹介し輪を繋いでいくコーナー
✨✨アーティストのわ✨✨

今回は、「キャタ・ザ・シャドラックと不敵な楽団」の
ギターヴォーカル、キャタ さんからの繋がりで

青江好祐 さんを

ご紹介します!
キャタ さんのインタビューはこちら

青江好祐 インタビュー

青江好祐
岡山県出身。
2000年、大学在学時にバンド「Youth Mousse Avenueユースムースアヴェニュー 」結成。 作詞作曲、ギターボーカルを担当。
2004年にバンドで上京。ライブハウスを中心に活動し、 ヤマハから2枚のアルバムをリリース。
2009年に解散。ソロ活動を開始し、同時に動画編集、ナレーション、司会などの活動も始める。
2016年にバンドを再結成し、吉祥寺を中心に現在も幅広く活動中。

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MVに詰まった個性

インタビューが決まってからMVを拝見したんですけど、
すごく印象に残ったのでそのお話からお伺いしても良いですか?

ユースムースアヴェニュー
「ハニームーン」Music Video full ver.
映像制作 /台風工房 監督 /矢ヶ部高佳 撮影 /世古直也

「ハニームーン」は、がっつりと
映像の監督に入ってもらって撮ったんですよ。
台風工房 っていう映像チームをやってる方が
友達のMVもやっていたので、お願いしたんです。
商店街をチャリンコで走るシーンは真夜中に撮って、
交差点の五叉路みたいなとこは、
全部完全にゲリラで撮りました。

あの交差点の中の、島になってる様な所も、
実際に演奏されて?

信号が青になると一回やめて、
赤で人がいなくなった隙に撮る、みたいな感じで(笑)。
これは、Youth Mousse Avenueユースムースアヴェニュー  っていうバンドを
再結成する時の一発目だったので、
記念に、ちゃんと撮ってもらおうということになって。
その後のMVは、大体僕が撮って編集してます。

交差点の真ん中で演奏されている部分は、
これは実写なんだろうか、合成なんだろうか…って
迷いました。

今だったら合成でやっちゃうかもしれないですね、
違和感なく出来るから。
でも、月だけは合成なんですよ。

「四畳半」のクイズコーナーも、
ものすごくインパクトがあって…(笑)

「四畳半」のMVは、
イギリスのコメディグループ、モンティ・パイソン
ビジュアルデザインとかをやっていた
テリー・ギリアム っていう人がいて、
その人みたいな感じの世界観にしたくて、
手描きだったり、フリー素材を改造したりしてるうちに
こんな感じになりました。

「素敵なお花摘み」も、曲の世界観そのものがシュールで(笑)。

お花摘みは、全部僕の編集ですね。
そこが2020年で、
「四畳半」とか「素敵なお花摘み」は
後で『十畳』ってアルバムにまとめるんです。
サブスクでも出している
四畳半』『五畳半』っていうミニアルバムを
最終的にくっつけたんですけど、
ちょうど、録り始めたのが2020年の1月からなんですよ。
レコーディングを、よし、やろうって
始めた直後にコロナ禍に入った感じです。

この時期はいろんなもののタイミングが狂っちゃいましたね。

でも、その分制作は進んだんですよ。

「My Girl」のMVやシングルは自分らで作ったものの
さてここからどうしようか、みたいなタイミングの時に、
20代の頃にユースムースをプロデュースしてもらってた
ヤマサキテツヤさんという方に
10年以上ぶりにライブを見てもらう機会があったんです。
それをきっかけにレコーディングをお願いしたんですけど、
その直後にコロナ禍で。
ライブをするのはすごく難しかったんですけど、
でも粛々とレコーディングを進め、
アルバム一枚作るのに2年半ぐらいかけたんで、
逆にいろんなことがいい方向に向かったのかもしれない。
ここも、僕自身の活動の新しい指針になったような感じがします。

アルバム『十畳』制作 〜 人生における現在地

2020年からレコーディング始めたんですけど、
10曲以上並行して作業していて、
レコーディングしてると告知はしていたものの、
仕上がる気配がなかったので、
どれか1曲、年明けとかにMV付きで発表出来るように
仕上げましょうっていう話になったのが、
「素敵なお花摘み」だったんです。
曲もアコースティックで、バンドとしてはエレキのバンドなのに(笑)。

(バンドは)ブリティッシュロック寄りのサウンドですよね。

そうなんです。
そもそもルーツがビートルズだったりするんで。
で、今の時代サブスクもあるから、
出来た順から4、5曲で発表していこう、
みたいな感じで並行して次はミニアルバムを出そうと。
その頃にもう「四畳半」は曲として作りかけていて、
曲の尺が決まった段階で、
音が仕上がる前にもうMVを作り始めたんですよ。
クイズのとことかも入れたり。
でも映像制作に行き詰まって、
2021年の秋くらいにやっと(音が)出来たんですけど、
MVが完成しなかったんです。
そこで、映像やってる後輩にお願いして、
僕の無茶苦茶な素材の切り貼り部分と、
サビのとこの実写を組み合わせてもらって作った感じです。
その翌年(2022年)の5月くらいには、
『四畳半』の次の『五畳半』っていう5曲入りのEPを作って、
『四畳半』4曲、『五畳半』5曲で合計9曲だったんで、
そこにCDにだけ新曲を1曲入れようってなって、
全10曲にして、『十畳』にしたんです。
それが2023年の秋ぐらいだから、
レコーディング自体ほぼ3年半ですね。

じっくり作られましたね。

コロナ禍っていうのはあったし、
バンドの話で言うと、
2020年の頭にギターの近藤くんが結婚したんですよ。
で、その翌年には奥さんがご懐妊されて、
でもコロナがどうしたみたいなことで
余計にデリケートな事になるので…それで、
近藤くんには“育休”してもらってます。
おめでたい話なんですけど、そこからスケジュールが合わなくなって、
2022年の真ん中くらいから会ってないんですよ。
まぁ、しょうがないんですけどね。

なので、バンドとしての音源なんだけど、
半分くらいは僕1人の歌とベース、
あとはマルチプレイヤーであるヤマサキテツヤさんが
ギターや鍵盤を入れながらコツコツ組み上げて行って、
なんだかんだで3年半かかった感じです。

音源にバラエティ感があるのは、そういった背景もありそうですね。

そうですね。曲によっては、
試しに当ててみた近藤くんのギターを
メモリアルとしてっていうか、それを切り刻んで貼ったりとか。
だから、めちゃめちゃよく言ったら、
ビートルズのアビーロードみたいな、
参加していないメンバーがいる曲もあるけど…みたいな感じで。
やっと2023年の秋に『十畳』を作った時に
嬉しさもあるんですけど、
やっとひと段落ついた感じがしましたね。

一緒に居ないのも、ちょっと寂しくありますね。

そうですね。僕、上京して20年なんですけど、
例えば、ギターの近藤くんを関西から東京に
連れてきちゃった、みたいなことを思った時に、
別にバンドが売れてるわけでもないし、
だからと言って僕が責任を負うことではないかもしれないんですけど、
今、東京に家族ができて幸せに暮らしているのであれば
、一安心かな…みたいな気持ちです。

僕は、バンドは大学の軽音楽部で結成したんですけど、
就職をせずにバンドを続けるって時に、
ちょうど氷河期だからみんな
「え、就職しないの?」じゃなくて
「今どこも就職ないもんね」みたいな、
やりたいことがあるだけいいじゃない、
みたいなムードでそんなに世間からの風当たりは強くなかった気がします。
2005〜6年の頃にインディーズではリリースさせてもらったんですけど、
メジャーデビューはできなくて…って言う時にも、
世間はもうCDのメガヒット時代が終わりかけてたんで、
メジャーにこだわることもないよね、ってムードがあった気がします。
で今は、別に売れなくても、
好きなことを続けるってすばらしいよね、な感じが世間にあるんで、
音楽をやって暮らしてる中で、
そんなに世間からの冷たい視線を感じた記憶はないかな。
真面目にやっている人は大変だと思いますけどね。

40代、ちょうど人生を見直す時期になってきますね。

そういう意味では、
売れたいといえば売れたいんですけど、
特にコロナ禍以降…40代になってからですかね、
若い時に思っていた「売れたい」に
あまり正体がないことに気づいたみたいな感じがして。
もちろん、ライブにお客さんが来て欲しいなとか、
新曲を発表したらたくさん聞いて欲しいなというのは
まったく変わらないんですけど、
それよりも、自分がやりたい音楽のサウンドとか、
どこまで自分の技量が上げられるか、とかを考えないと。

例えば、60歳まであと15、6年じゃないですか。
その年でも元気な人いっぱいで勇気づけられるんですけど、
病気とか怪我とか考えたら、
今のこのいいコンディションで音楽が出来るのって、
ひょっとしたらあと10年くらいかもしれないってと思うと、
あまり寄り道をしていられない。
回り道はするんですけど、
目的に向かっていればそれでいいかな、みたいな感じですね。

病気や怪我のことは考えちゃいますね。
私も5〜6年前に手術することがありましたし、
病気で亡くなってしまった仲間もいますし…。

僕は幸い、大きな病気も特になく来てるんですけど、
やっぱり折り返してはいるんだなって。
でも本当に今が一番調子いい。

それは何よりですね。

「歌舞伎町の女王」を最初に聞いたのは、自分で打ち込んだシーケンスだった

音楽を好きになったり、演奏を始めたきっかけとなった
アーティストのことをお伺い出来ますか?

僕はそれだと、ビートルズですね。
親が世代でして、父親のレコードが家にあって、
生まれた時から聞かされてて…。
いっとき興味は無くなってたんですけど、
小2くらいの時に、
お年玉でギターを買いたいって言ったらしいです。
で、2万円くらいのガットギターを買って、
ちょっと弾いて、飽きて押し入れに入れてて。
中学校に上がるくらいから音楽に興味出るじゃないですか。
それでビートルズのCDを自分で買い始めたんです。
でも洋楽を聴きたかったんですけど、
岡山の田舎にそんな洒落たものがないんですよ。
地元のレコード屋って、揃ってるのが
ビートルズとか王道なものばかりで。

わかります。当時の福山、尾道(※広島県東部)あたりも
大体似たような状況ですから(笑)。

ビートルズかボンジョビか、みたいな感じでした。
家にビートルズのレコードあったな、と思って
興味あるものから買い始めて、
そういえばガットギターがあったな、と思い出して。
で、うちの父親がビートルズ世代かつフォーク世代でもあるので
家にフォークギターがあるんですよ。
だから、最初に一緒に合奏した相手は父親です。
アイ・フィール・ファインとか
デイ・トリッパーとかをガットギターで弾いて。

父は歌がすごく上手かったんですよ。
で、僕はジョージ・ハリスン的な感じで弾いてたんですけど、
そもそもギターを始めた時から、
ギタリストになりたいわけじゃなくて、曲を作りたかったんです。
最初から父に、コードを教えてくれって。
そういうのを使って、何か曲を書けるようになりたいなっていう
記憶があります。
あとは、多分皆さんと一緒でしょうけど、
中高と友達とバンドをやって、
高校生の時に文化祭のステージに立つ、みたいな。

その時は何を演りましたか?

やっぱりビートルズをやりましたし、
J-POP のミリオンヒット時代だったので
ミスチル(Mr.Children)とか。
あと、トライセラトップスが好きで
デビュー当時からよく聞いていました。
ミスチルとかで難しいコード進行とか覚えました。
当時、コード譜付きの歌本とかめちゃめちゃあって。

ありましたね。
月間歌謡曲とか、明星とか。

あと、デビュー当時から2枚目くらいのアルバムまで
椎名林檎が熱烈に好きで。
最初は単純に顔が好きだったんですけど、
地元のCD屋で、ヒットする前から
デビューシングルを買って聞いてたんです。
雑誌でセカンドシングルの「歌舞伎町の女王」が出るって知って、
でもどこにもシングルが置いていないんですよ。

しょうがないから歌本を見て…
話題のシングルは譜面付きで載ってたりするので、
友達に借りたシーケンサー打ち込んだんです。
なので「歌舞伎町の女王」を初めて聞いたのは、
自分で打ち込んだシーケンスだったんですよ。

そのケースは初めて聞きました(笑)。

あまりに聞きたくて、
自分で譜面見ながらゆっくり打ち込んだんです。

初めて岡山の街の方のタワーレコードに行った時は、
やっぱり感動しました。
当時、地元の本屋で手に入る『ロックの名盤100選』みたいな本で、
アルバムのジャケットを覚えて、
初めてタワレコでエルヴィス・コステロの
ファーストアルバムの輸入版を見つけて買った時は感動しました。

大学に行った時は、ジョンとポールを探そうと思ったんです。

自分の高校には軽音楽部がなかったので、
大学に行ったら入りたいなと思って、大学に行った感じですね。
高校の時にオリジナル曲も作っていたんですけど、
俺のオリジナル曲は、大阪に出て理想のメンバーを見つけた時に
炸裂させるのだ、みたいな気持ちでした。

でも、大学ほぼほぼ通っていないんですよ。

自意識の肥大した箱入り息子だったんで…
アホみたいな話なんですけど、
知らない人と喋れない内弁慶だったので、
履修ってどうやるんだろう、とか
どこで用紙をもらうんだろうっていう時に
他人に聞けなくて、それで1年の時単位が0だったんですよ。
引きこもってはいないんですけど、学校に行かなくなっちゃって。
一体どうしたらいいんだ、と思いながら過ごしていた気がします。

だとしたら、今こうやって初対面の人と喋っているのは
ものすごい進歩ですね。

当時の僕が今の自分を見たら、
嫌な大人になったな、と思うんじゃないかと思いますね。

嫌な大人?

ニヤニヤしやがって…とか。
そういう尖り方をしながら
バンドも組んで無いのに家で曲作ってたりしてましたね。
当時10代だから酒を飲むでもなく、タバコを吸うでもなく、
とにかく自分一人暮らしのアパートと
近所のCD屋と本屋とゲーセンをうろちょろして
飽きたら岡山帰って。
軽音楽部の集まりが週に2回あるので、
その時に顔出して、先輩の手伝いする感じで。
なんかめちゃめちゃ暗かったです。

2回生の時に Youth Mousse Avenue を組んで、
学内の定期演奏のライブの他に、
他校と交換交流したり、
ぼちぼちライブハウスにも出始めました。

お話が全然出来なかったところから
バンド結成に至るまで、なにか変化があったのですか?

音楽の話だと、普通に喋れるというか、
自分が知らないことやわからないことに対して
人に聞いたりとか出来たんです。
1年経つころには同級生で、
それなりに仲良くなってたりしました。

当時の僕は、
ビートルズで言う所のジョージ・ハリスンみたいな立ち位置になりたくて。
上手いとは言われないまでもリードギターを弾いて、
アルバムに2曲くらい名曲を書くような感じがいい、みたいな
ちょっと斜に構えた憧れがあって。
だから大学に行った時は、ジョンとポールを探そうと思ったんです。
バリバリ曲書いて、バンドを引っ張ってくれて、
でもその中で、通のファンが自分の曲を
「やっぱりあの曲がいいんだよ」って言うみたいな、
そんな変な希望が。

でも、どこにもジョンもポールもいなくて、
やっぱり自分がメインで曲を書いて歌うようなスタイルじゃないと
無理なんだと思ったんです。
その時に、同級生の近藤くんと2人でバンドやろうかって話になって、
ベースに転向してもらった当時ギターだった人と、
当時学年で1番上手だったドラムの4人で組んだのが
最初の Youth Mousse Avenue でした。

ただ、僕単位が0だったので、
4年間のうちになんとか
音楽で社会との接点を作らないとやばい、という
焦りがすごくあったんです。
だから3回生くらいの当時は、
コンテストに年4〜5回くらい出ていました。
デモテープは通って決勝に呼ばれるんですけど、
決勝で審査員にボロカスに言われるみたいなのを繰り返してて。

その時に、
審査のコメントで「デモテープのほうがよかったです」って言われて、
僕も当時若かったんでカチンと来て、
「まだ曲あるんで、もらってください」って
そのヤマハの審査員にデモテープを渡したんです。
そこから時は流れて、2002年。
就職はもう出来ないし、
実家を継ぐには音楽を辞めなきゃいけない、ってなった時に、
就職活動みたいに勝負音源を作って、
それをいろんなレコード会社に送りました。
さっきのヤマハの方は名刺をもらっていたので
そこにも送ったら、もうその人は辞めていて。
でも、引き継いだ方が
コンテストの音源より良くなっていると言ってくださって、
そこからやり取りをしていたんですけど、
あまり話が進まなかったんです。

その当時、
色んな有名アーティストの制作をしてたディレクターの方が
『ミュージシャンになる方法』という本を出していて、
その本の巻末のクーポンを貼ってデモテープを送ってくれたら
絶対に聞きます、いいと思ったらすぐ電話をするようにしてる、
って書いてあったんですよ。
それで送ったら、電話がかかってきて。

でも、当時甘く想像していた「君もデビューだ!」じゃなくて
若いのに面白い、と思ってくれたみたいで、
今度ライブに若い者を行かせるよ、みたいな感じでした。
当時、メンバーみんなが大学を卒業する半年くらい前で、
「東京からレコード会社の方がいらっしゃる!」ってなって。
で、それと同時にその本に、
A社と話をしている時に、B社からも話があったらそれを隠さないほうがいいって書いてあったので、
ヤマハの担当の方に連絡したら、
ヤマハも東京から制作の人が見に来てくれたんです。

ライブを見てもらった結果、
ヤマハの人が面白く思ってくれて育成契約みたいなのをしてくれたんです。
とりあえずこれで、誰からも認められない状況は脱して、
卒業後の2003年は、ヤマハの関西の支部の人とやり取りをしながら、
デモテープを毎月4曲くらい作る生活をしてました。
今思えば、弾き語りの1コーラス程度でいいから作れって意味だったと思うんですけど、
気合いが入ってしまってバンドでフルコーラスの音源を1年に50曲以上書いてたんですけど、
一切話が進展しなくて。
今思えば本当に自分たちの実力のなさ故なんですけど、
焦ってるうちに、
ヤマハにつけてもらったプロデューサーの人ともうまくいかなくなって、
もうダメかもしれない、となった大学卒業の1年後、
逆に東京に行こう、とメンバー全員で上京するんですよ。
ちょっとメンバーの入れ替わりはあるんですけど、
僕と近藤君はいる状態で東京のライブハウスに出始めました。
ヤマハの方も「呼んでもないのに来ちゃったんだ」みたいな感じで(笑)、
とりあえずディレクターの人をつけてくれて、
歌詞を直すのを手伝ってもらったりとか、
自主制作音源を制作したりしながら活動してました。

当時、ストリートライブでも知ってもらえて
お客さんが増えてきた2005年に、
ヤマサキテツヤさんという後の師匠に出会うんです。
ヤマハからの繋がりで出会ったんですけど、
その師匠に最初に「音楽を好きでずっと続けたい?」って聞かれて、
「はい」って言ったら「じゃあまずは就職だな」って言われたんですよ。
今思うとすごく深い言葉なんですけど、
その当時は、いやいや(笑)、みたいな感じで流していたんです。
その言葉の重みがわかるのは20年近く経ってからなんですけど…。

そこから曲作りや歌詞の話をするのですが、
当時は「なんと厳しいダメ出しだ」と思いながら
歌詞も何回も直したりして、
ヤマハのインディー部門でアルバムを1枚作らせてもらって、
のちに iTunes がやっと認識され始めた当時くらいに
フルアルバムを配信限定で出させてもらいました。

当時から拠点が吉祥寺なんですけど、
毎年やってる吉祥寺のお祭りのイベントで
バンドコンテストがあるんですよ。
それでグランプリを取ってMVを商店街で撮らせてもらったり、
HMVと新星堂とタワレコがあった頃に、
吉祥寺の3店舗限定でMVのDVDを付けさせてもらったりとか
街ぐるみで良くしてもらってて、
かなりの快進撃だったんですけど、
2006年くらいからメンバーが抜けたり入ったりし始めて。

僕はその時、まだ全然人間性が治ってなくて。
治ってないというか、人格が全然良くない感じだったんで、
みんな青江に不満や不信感があるとかで辞めていったんです。
色々頑張るんですけど、途中からヤマハとも円満に別れて、
2009年にギターの近藤くんも辞めるって言って、解散になりました。

悪い意味じゃなくて、30代を懲役の10年って呼んでる

30代前半はずっとソロでやってたんですけど、
僕以外全員女性だったら面白いな、と思って
メンバーを足していったのが「青江好祐と女たち」なんです。

20代でバンドが一回ダメになったんですけど、
30手前で人に対するいたわりも出来ない、
職歴のないただの痛い男が残ってしまった、
これはやばいなと思って
音楽を続けるためには人間を直さないといけない、と思ったんです。
そこから、活動は楽しくやれて、
今でも「女たち」メンバーはみんな仲良いんです。

僕は悪い意味じゃなくて、
30代を社会復帰のための「懲役10年」と呼んでるんです。
今までは人のせいにしていたんですけど、
「いや、多分自分が悪いに違いない」みたいに
思い直すような癖をつけるみたいな感じに過ごしてきました。

その頃に、吉祥寺音楽祭で司会をやることになったんです。
そこから先輩や友達のイベントとかで司会をやり始めて、
祭りやコンテストの司会もやるようになったんです。
で、司会をやるとなると、
あらかじめバンドのことを下調べしたり、
裏方のことをするようになりました。
動画の撮影を覚えたのもこの頃です。
音楽以外のことをするようになって、
今まではイケメン(?)ボーカルキャラみたいな感じだったんですけど、
のちの「四畳半」のMVのような
くだけたおじさんになる過渡期が30代だった感じですね。

近藤くんも何かバンドをやっていたり解散したりと
関西に帰っていなくて、
僕もその人間のリハビリにだいぶ手応えがあって、
友達も増えたんです。
自分が変わりつつあることがわかったので、
近藤くんに、東京にいるんだったらもう一回やろうよ、
って言って再結成する流れでした。
それが「ハニームーン」です。

40代になった時に、ちょうど真ん中くらいに来た

さっき僕が言った今のコンディションがいいっていうのは、
単に健康とかじゃなくて…
うん、なんか極端だったんですよね。

20代の時は「俺の力を証明してやるぜ!」みたいなものだったのが、
30代は逆に卑屈になりすぎて。
嫌なことや理不尽な目に遭っても、
「20代の時の行いが悪かったからに違いないな」
みたいな捉え方をしていて、
自信があるのかないのかわからない感じでした。

それがようやく40代になった時に、
その振れ幅がちょうど真ん中くらいにきたような感じがします。
インタビューに出てきたキャタくんをはじめとした
人としての生活と素敵な音楽を両立させている仲間が
増えたのがでかいですね。
その時に、師匠に初対面で言われた
「音楽を楽しく続けたかったら就職すれば」という
言葉の意味にようやく辿り着くというか。

余命30年くらいだと思うんで、
粛々と作品を作って広く届ける努力もしますけど、
楽しみながらクオリティを上げていくことをやったほうがいいのかな、
みたいな気持ちになっているところですね。

本当に学び直しの30代だったんですね。

今から思えば、いろんな人に良くしてもらってるので、
全然過酷なわけじゃなかったんですけど
30代でそれが出来て幸いでしたね。

なんと言いますか、
すごく長い準備期間があって、気づきがあって、
それで今の青江さんがあるんですね…。
再結成の「ハニームーン」のMVからは、
すごく少年のような純粋な雰囲気を感じました。

「ハニームーン」は、
月と一緒に一人で歩いてるイメージなんですよね。
朝が来たらそのハニーとは会えなくなってしまうという歌なんですけど、
結果的にそれが近藤くん自身になってしまったという
オチがついたというか(笑)。

あのときぼんやり思ったのは、
我々バンドマンは堅気ではないイメージだと思うのですが、
夜の中をどこまでも歩いていく中で人生の岐路に立った時に、
近藤くんにはお日様が登ったんだなって。
今でもあの曲をライブでやってるんですけど、
あの曲を聴くと、不思議な予知夢のような感じがします。
青春っぽさにはいつか終わりがある…というものが、
あの曲にはしっかり出たんじゃないかなって。
夜は絶対朝になるから。

逆に、それを再結成の時から考えてる段階で
長く続くはずがないなと思うんですけど。

逆に、青江さんにとっては
目覚めだったのなかって、
お話を聞いて思いました。

本当に、20代から40代にかけて大人になったんだ
という感じですね。
やっぱり、周りにすごく恵まれたんだと思います。
今までやったメンバーもそうですし、
師匠然り、その人が紹介してくれた方とか、
そういった人に恩返しできるような活躍が
出来たら出来たらいいんですけどね。

お世話になった人に喜んでもらいたいですよね。

ミニアルバム『四畳半』&『五畳半』

四畳半 by ユースムースアヴェニュー
アルバム • 2022年 • 4曲 • 11分
五畳半 by ユースムースアヴェニュー
アルバム • 2023年 • 5曲 • 19分

最新MV「上を向いて踊ろう」が公開中!

青江好祐さんインタビュー、いかがでしたか?

最新MVの「上を向いて踊ろう」が
Aoe Philharmonic 名義で2025年1月1日に公開されました!
どこか切なく、でも力強く歩みを進める
青江さんの現在地をぜひお聞きください!

アーティストがイチオシアーティストを
紹介して繋がっていく
アーティストのわ

次回は、どんな方がご登場されるのでしょうか?
お楽しみに✨✨✨

アーティストのわ
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投稿者
服部 ヒロ

「風景が見えるピアノ」と評される、まるで映画の様に情景を描く作曲家・キーボーディスト。これまで4枚のオリジナルアルバムをリリース。iTunes storeインストゥルメンタル部門で「水槽から観る風景」日本6位、「若葉色の風」日本31位を獲得。サポートミュージシャンとして多数のアーティストと共演し、NHKホール等に出演。ポップス、ロック、演歌、歌謡曲、ゴスペルなど様々なジャンルを演奏し、「歌に寄り添うピアノ」との評価を得る。

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