EPIC・ソニー設立者 丸山茂雄さんならではのリーダー論とは!?

丸山さんにきいてみよう!

2024年3月13日、様々な出版物をテーマに日夜トークイベントを催している下北沢の本屋でありカフェでもあるB&B(BOOK&BEARの略だそう!)にて、丸山茂雄×上條淳士×田中泰延によるイベント「丸山さんにきいてみよう」が行なわれた。
丸山茂雄の著書『黒子のリーダー論』(日経BP 日本経済新聞出版)刊行記念として企てられたものだが、もう一人のトークゲスト上條淳士による図録『籠鳥恋雲』(ワニマガジン)、司会を担当した田中泰延『「書く力」の教室』(SBクリエイティブ)も上梓されて、イベント後にはサイン会も催されるなど、会場は熱心なEPIC・ソニーファン、上條淳士ファン(TO-YのTシャツ姿も見受けられた)らにより満員御礼で、トーク内容も大変な盛り上がりを見せた。

上條淳士『籠鳥恋雲』(ワニマガジン)

実はこのイベントはそもそも4年ほど前から企画されていたが、コロナ禍により何度という延期を繰り返してきたもので、4度目にしてついに実現に漕ぎ着けたのである。
EPICファンとしては丸山さんが元気なお姿でいらっしゃるというだけで嬉しいが、個人的には昨年の映画イベントで僕が司会した際に久々にお会いした際、Player休刊とか僕の方がいろいろあったので逆に大丈夫か?と心配されたくらいだった(笑)。
お声こそかけ損ねたものの、ICEの30周年ライブにも足を運ばれていて、相変わらずライブ現場に登場する丸山さんは健在なのである。
さて、トークイベントの内容に関して、僕のようなEPIC・ソニーファンはどうしても80年代のことに興味があるわけだが、『黒子のリーダー論』で執筆されているように、プレイステーション誕生のエピソード、さらにはお父上が手がけたものの社会現象となった丸山ワクチンのエピソードも飛び出す内容となった。
ここでは「丸山さんにきいてみよう」の模様の一部を駆け足ながらお届けしよう。

田中泰延『「書く力」の教室』(SBクリエイティブ)

なお司会の田中泰延さんはファンクラブに入っていたというコアな佐野元春ファン!
まずはエレファントカシマシ大江千里大沢誉志幸岡村靖幸小比類巻かほる、佐野元春、シャネルズTHE STREET SLIDERSTHE MODSTM NETWORKBARBEE BOYS渡辺美里のデビューアルバムのジャケットがバックスクリーンに映し出されて、丸山さん在籍時のEPICからスターミュージシャンが生まれた偉業について語られる…のだが、当の丸山さんは「ロックの丸さんだと思われているけれど…」と笑い、EPICのミュージシャンたちは実際はスタッフたちが発掘してきた存在だったと語る。
丸山さん自身のロック感に合うミュージシャンをピックアップしていったと思っている人は多いが、そこはスタッフなんだってことは以前より丸山さんが主張している部分。

さらに上條さんは当時のテレビでいわゆる日本のロックはさほど観られなかったことを語る。せいぜい原田真二Char世良公則&TWISTのロック御三家くらいで、ゆえに自分達アラカン世代は洋楽世代と言われていたと。
イベント終盤に来場者からTVKテレビとEPICの親和性についての質問も出ていたが、EPICがスポンサードしていたTVKテレビでの「ファイティング80’s」を筆頭に、テレビにロックミュージシャンが登場する、あるいはプロモーションビデオを作る(そして坂西伊作という天才監督が生まれる)、そうした映像を披露するビデオコンサートという戦略があたり、挙句は「eZ」といこだわりのヴィジュアル展開で当時の十代、二十代に鮮烈な印象を植え付けてきたのがEPIC・ソニーの凄さだ。

他方で1978年のEPIC・ソニー設立タイミングではレコード大賞の賞レースにレコード会社のスタッフが総動員されるような音楽文化だった最中、EPIC・ソニーはレコード大賞紅白歌合戦も目指さない独自路線を確立させる。
シャネルズがそもそもCMサイズで歌った「ランナウェイ」に着眼、フルコーラス作ればヒットするのでは!?という確信が、EPIC・ソニー設立後、初の大ヒットシングルを生んだ。これは大きかったそうだ。

左より上條淳士、丸山茂雄、田中泰延

上條「テレビの歌番組全盛の時代にテレビ局にへこへこしないビジネスモデルを作ったってどういうことなんだろう!?と。別にテレビに出なくてもCDも売れるし、ライブ会場に人が来るんだってことを証明したし、他のレコード会社もEPICのやっていることに続こうと真似し始めましたよね。このムーブメント自体がテレビの歌番組を一回終わらせちゃって、その後にきたのがバンドブーム。まさに時代を変えてしまったんです。」

丸山「僕(の目論見として)はね、もうちょいEPICがガーっと行くはずだったの。僕らがやってたEPICのアーティストがだんだん支持を集めてきて、売れるようになって、若者の一部がテレビに出ないアーティストがカッコいいと思っていた時に、世の中の一般層はテレビに出ている人が一流だと思っているという二段構造になっていた。そんな時にイカ天(「イカすロック天国」)という素人バンドのオーディション番組が始まった。そうするとテレビに出ている方が上って視聴者層が多いからEPICは圧迫されたんです。EPICが本当はもうちょっと大きいうねりになるはずだったのが、エレファントカシマシがそうだし、BO GUMBOSといったバンドはイカ天とぶつかって世の中に出られなくなっちゃったんですね。」

とは面白い丸山さんなりの分析。正直、僕の考え方とは違うのだけれども(笑)。
詳細は『黒子のリーダー論』に書かれているが、1988年で丸山さんはEPICを離れることとなる。
2023年、大江千里は『Class of ’88』というアルバムをリリースしたが、いろんな意味で1988年というのはEPICにとって節目の年だったのだなと思う。

「1988年に丸さんはEPICを離れるわけですけど、その後もEPICから僕らが知っているように、僕らの世代のスーパースターといっぱい出てきたんですよね。」と田中さんは語り、スクリーンにはJUDY & MARYスチャダラパー東京スカパラダイスオーケストラCHARATRICERATOPSPUFFYらが映し出された。
「イカ天の煽りを食った後に、またヴィジュアルを使ってビデオとかを作って大きくなっていったんですよね。」と田中さん。
「EPICの途中から映像のチームが立ち上がって…坂西伊作という日本のミュージックビデオの元祖みたいな男で。この男が撮りまくったんですよね。ビデオで撮るんじゃなくて、(映画撮影で使用される)35mmフィルムで撮るもんだからめちゃくちゃ金がかかるんだ。でも映像系の人からそのクオリティが賞賛されて、賞賛されると良い気になり(笑)、金を出す私も“そんなにみんなが褒めてくれるんだったら…”と予算をどんどん出し、好循環なのか悪循環なのかよくわからない循環ができ(笑)、それで良い作品を作っていったのだがEPICのアーティストのブレイクに凄く貢献したんだよね。」

上條「伊作さんの映像の圧倒的な説得力が「eZ」というテレビ番組を生むんですよね。」

田中「今、本当にPV文化でYouTubeで好きな時に好きなだけ観られるけれど、でも前はテレビの前で待ってないと観られなかった。夜中のあの「eZ」の時間が嬉しかったですね。」

上條「他の歌番組では出ないんだけど、EPICのアーティストがテレビで観られる…あんなことは他ではなかった。」

いわゆる親会社であるCBS・ソニーのスポンサードである「VIDEO JAM」も先達だったわけだが、MTV Japan設立前は「eZ」ともども当時のソニー系アーティストのファンにはビデオエアチェック必須の番組だったのだ。

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さらに話題は上條淳士先生にも及ぶ。
田中「『TO-Y』は主人公藤井冬威の周りを取り巻くテレビ局や芸能界のシステムがめちゃくちゃ詳しく書かれてるんですよね。その中でいろんなお金が動いたり、歌番組に出る出られないがあったりとか、アーティストになりたいけど今はアイドルっていう哀川陽士との関係性の違いが描かれているんですけど、やっぱりそこにはEPICのやり方が(参考として)あった?」

上條「もちろんです。こういうやり方を自分は雑誌の誌面でできないかなと。ちょうど同じ時期に「PATi-PATi」という雑誌ができたのも後追いになったかなと。「PATi-PATi」の形態はそれまでの音楽雑誌にはなかったんですよ。グラビアにすごく贅沢にお金を使っていたし。ちょうど丸山さんが、EPICの新入社員として当初入社させたよしだよしみ(現かわい)さんが編集者としてソニー・マガジンズに移ったから、二十代で僕とも出会えたしそれ以来の仲なんです。」

元々出版志望だったよしださんはソニー・マガジンズ(当時はCBS・ソニー出版)へ移動。これが契機となり「PATi-PATi」でTHE STREET SLIDERSのライブレポを漫画で表現したりと、当時画期的な記事が実現した。
これに対して丸山さんが「いやー、お世話になってたんだ!」と声を上げて場内大爆笑となるシーンも。

後半ではプレイステーションを手掛けた際のエピソードも語られた。この辺は『黒子のリーダー論』をお読みいただくとして、丸山さんは2007年に食道がんを患い、一時は余命三ヶ月と言い渡されての闘病生活を送っていたが、それから何年も経った今、むしろ現在の方が元気に見える。
この日も電車で来られたそうだ。来場者からの質問コーナーでは、一時期は大変な病状についての問いが投げかけられる。

上條「それね、これから話そうと思ってた」

田中「いい質問ですよ!」

丸山さんの父である丸山千里(ちさと)さんは元日本医大学長であり、かの丸山ワクチンの開発者だ。
元々、丸山ワクチンは皮膚結核治療薬として生まれ、ハンセン病の皮膚障害、発汗障害、神経障害にも効果が認められた。さらにはがんにも効果があると言われており、丸山さんも標準治療をし続けるとともに丸山ワクチンを接種したそう。
丸山ワクチンについて少し語ると、現在も厚生省の認可はされておらず、一時期は丸山ワクチンを求める患者たちと厚生省との間によるせめぎ合いは社会問題にもなった。
結果的に厚生省は認可はしないが使用は認めるという、有償治験薬という特殊な位置づけに。つまりは現在は医師との面談により治験薬として交付はされるのだが、保険がきかない自費診療扱いとなっている。

丸山「でもね、その費用はめちゃくちゃ安いんですよ。」

田中「僕ね、がんになったら丸山ワクチンを絶対に打とうと思っていますけど(笑)。丸山さんはがんとわかった時に、丸山ワクチンをすぐに打とうと思ったんですか?」

丸山「そうですね。」

田中「ずっとお仕事されてきて、ある日突然ものが飲み込めなくなって、しかもがんがかなり進行していて、あと3ヶ月の余命ですって医者に言われちゃった時から16年半じゃないですか? 一時は覚悟も決められたと思うんですけど、そこから生きてきた16年間ってどういう考え方でしたか?」

丸山「それは成り行きですね(笑)。3ヶ月の余命って言われた時もしゃあないなと(笑)。」

上條「(丸山さんの著書)三冊目は『成り行き』って決まりました(笑)。」

丸山茂雄『黒子のリーダー論』(日経BP 日本経済新聞出版)

『黒子のリーダー論』は日本経済新聞朝刊に連載された「私の履歴書」をベースに加筆された自叙伝的内容であり、先述の通り、CBS・ソニーから生まれたEPIC・ソニーのエピソードはもちろんのこと、その後手掛けたプレイステーションによるゲーム参入、そして若いスタッフに委ねることの重要性、がん治療のこと…丸山さんならではの半生がストレートに語られている。
さらには丸山さんの後輩でありソニー元社長である平井一夫さんとの対談、プレイステーションの産みの親としばしば称される久夛良木健さんとの対談も掲載。
僕のようなEPIC研究家必須の内容でありつつ、丸山さんならではのユニークな人選と共に信頼するスタッフにとにかく任せる、自由に動いてもらうというスタンスというのは、過剰なマネージメントになりがちで自由な発想を奪ってしまうような一部のビジネスシーンなどを見ていると、『黒子のリーダー論』って考え方は非常に有効的な気がする。
EPICのムーブメントを生んだ“黒子”はスタッフはもちろんのこと、携わったミュージシャンみんなにも愛されており、愛されるリーダー論としてご一読いただいても面白いだろう。

 

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