バディットマガジンWEBばん!で
イチオシのアーティストを紹介し輪を繋いでいく
✨✨アーティストのわ ✨✨
前回はりつフラワーさんにご登場いただきましたが、
(記事はこちら!https://bhodhit.jp/ritsuflower/)
今回ご紹介いただいたのは・・・・
SOONERSさんです!!!
同じ高校のバスケット部出身の5人でバンドを結成。
「RUN TO THE BLUE SKY」が、川崎フロンターレを応援する番組「SUKI!SUKI!フロンターレ」のテーマソングになる(番組にゲスト出演する)。
世界のトップファッション雑誌とされる「L’UOMO VOGUE(ルウォモ・ヴォーグ)」にインタビューが掲載される(表紙はマイケル・ジャクソン)。
YAMAHA TOKYO BAND SUMMIT2007にて、グランプリの「ベストバンド賞」を受賞。グランプリ受賞曲「SUN AND WAVE」がauのラジオCM(Tokyo FM “SCHOOL OF LOCK”番組途中)にタイアップで着うた無料配信され、3万3千件以上のダウンロードを記録。
渋谷O-WESTにてワンマンライブ。シングル「HANA」がタワーレコードインディーズ週間チャート14位を記録。
アメリカで発売した2ndアルバム「PLUG IN」がインディーズ版のグラミー賞と評される「JUST PLAINE FOLKS WORLD MUSIC AWARD」にノミネートされる。
2013年、Kei(Vo,Gt)とガジャG(Vo,パーカッション)の二人でSOONERSの活動をリスタート。
今回ご一緒してくれたのは…
今回のインタビューに
SOONERSさんとともに参加してくれたのは、
前回インタビューをさせていただいた
りつフラワーさんと、
SOONERSさんとMusic Signで
共に活動している三浦剛さん!
SOONERSインタビュー
やっぱバンドしかねえなって
Kei:
僕、ボーカルじゃなかったんですけどね、最初。
ガジャG:
元々のバンドは5人組のSOONERSの前進というか、 同じメンバーで違うバンド名で始めて。
その時はもう1人メインボーカルがいて、Keiがギターで、僕がドラム。
他にもう1人ギターがいて、あとベースの5人組だったんですけど、Keiが基本的に9割作詞作曲。
僕は1割程度歌詞を書いてます。元々は兄弟2人でユニットみたいな感じで。
中学生の時に始めて、その時は僕もアコギを弾いてて。
一緒にどっちがいい曲書けるかみたいなことをしてました。
最初からコピーとか難しすぎてできなくて(笑)。
りつフラワー:
(笑)。
Kei:
タブ譜も読めない、楽譜も読めない(笑)。
中学3年の時に父にアコースティックギターをちょっと教わって。
家にレコードがめちゃくちゃあって、フォークソングのレコードを聴いたのが音楽を始めたきっかけです。
でも小学校からずっとバスケをやってたんで、体育会系でずっと育ってて。
中学の時も音楽をやりたかったというよりは、教えてもらってちょっとはまって、良い曲を聴いて、フォークソングがすごい好きになって。
フォークソングで、日本語ってこんなかっこいいんだって知りました。
ガジャG:
後々に知るんですけど、家でご飯を食べる時に必ず洋楽が流れてたんですよ。
ビートルズかオールディーズの曲がずっと。曲が流れてない日がなくて、だから家庭ってそういうもんだと思ってました。
りつフラワー:
カフェみたい(笑)。
ガジャG:
必ず音楽は流すものって思ってたよね?
Kei:
思ってた。
ガジャG:
それが当たり前だと思ってたのね。
だから気づいたら、ビートルズとかは、タイトルは知らないんだけど、ほとんどの曲はなんとなく口ずさめるみたいな感じでしたね。
小学校の頃から、ぱっと街の中で聴こえたらビートルズってわかるぐらい。
家にヤマハのギターが1本あって。それに興味が出たのが中学生だよね。
Kei:
そうだね。
ガジャG:
中学生の時に、ギターを父がよく弾いてたんですけど、よくよく話聞いたら、俺らが生まれて家を建て直した時に捨てちゃったんだけど、家にバンドの機材が全部あったんだって。
一同:
えぇ〜〜!!!
ガジャG:
エレキギターもベースもでかいアンプがあって。
でも家を建て直したタイミングで、 僕らはバスケットに夢中だったからやることないだろうなって。
で、残ったのがヤマハのアコースティックギター1本だったと。そんなことも知らずに。
中学校の時、家にレコードがめちゃくちゃあって、DENONとかのレコードをかけるいいアンプと、結構大きいスピーカーがあって。
Kei:
しかもスピーカーも何台目かだよね、1番初めにあったもっといいやつは、ちっちゃい頃、指をスピーカーにぶっ刺して(笑)。
ガジャG:
それはすごい覚えてる(笑)。
Kei:
あちゃー、やっちまったってね。
ガジャG:
2人でレコードを聴き漁るようになってきて、僕はずっと吉田拓郎さんだったんですよ。
吉田拓郎さんの実況録音盤。
Kei:
面白くてね、ほんとに話がうまくて。
実況録音盤ってどんなものなんですか?
ガジャG:
ライブ盤なんですが、ライブが通しで入ってるんです。
Kei:
ライブもMCも全部。 レコードって溝で1曲2曲って分かれてるんだけど、間のMCも繋げて全部入ってて。
そこの喋ってることも面白過ぎて、ずっとすり切れるまで聴いて、それを真似するのが好きで。
カジャG:
話が面白くて、もう半ば話しばっか聞いてた(笑)。
僕は吉田拓郎さんにすごいはまってて、兄貴はその当時フォークの神様って言われてた、岡林信康さんのファーストレコードで、「私たちの望むものは」っていう曲を聴いてました。
Kei:
撃ち抜かれましたね、中学3年の時に。
“私たちの望むものは”っていう歌詞で、“私たちの望むものは社会のための私たちではなく”、私たちの望むものは私たちのための社会なのだ”、みたいな感じで、社会派なテーマなんです。
で、“私たちの望むものは”ってずっと続いていくんですけど、それまで家では洋楽が常にかかってたから、歌=洋楽っていうイメージもあって、日本語はそんなにかっこいいと思ったことがなかった。
だったんだけど、そのレコードを聴いて、フォークソングを聴くようになってから、日本語ってめちゃくちゃいいなって。
特に僕がハマったのは、岡林信康さんの「私たちの望むものは」で、“私たちの望むものはあなたを殺すことではなく、私たちの望むものはあなたと生きることなのだ”みたいな感じのメッセージソングっていうか、戦争反対のようなことを歌ってて、曲の1番がそんな感じになってるんだけど、最後の歌詞で、“私たちの望むものはあなたと生きることではなく、私たちの望むものはあなたを殺すことなのだ”って、全部反転していくの、歌詞が。
1番で言ってたことが全部反転して…もう今もそうなんですけど、鳥肌が(笑)。
もうその時、中学3年の時に初めて全身鳥肌が。
ガジャG:
最後ね、“あなたを殺すことなのだ”って言った瞬間に…
Kei:
バーンってピストルが鳴って、鳩がぶわーって飛んでいく音まで入ってる、そういうレコード。
中学3年の僕には衝撃的過ぎて、もうほんとに日本語ってすげえ、世界に通じる言語だって。
それまで英語が主流だと思ってたのに。歌なら英語でしょ?みたいな。
絶対日本語でグラミー取るぞじゃないけど、そういうぐらい日本語を世界に広めたいって中学3年の時に思って、歌を日本語で書き始めました。
ガジャG:
やっぱり最初は曲を2人で書いてて、それがフォークソングなんですよね。
思ったことを歌詞にまず書いて、それにコードを当てはめて歌うみたいな感じで。
だけど徐々に兄貴の方が、当時っぽい感じの曲を書くようになってきたんですよ。
で、こっちが恥ずかしいわけですよ、そういう曲が。
兄貴が初めてJ-POPみたいな、今流れてそうな曲を書いた時があって、そこで作曲は兄貴に任せようと思って。
僕が歌詞を書いて、兄貴が曲をつける。最初はスピッツさんとか、ああいう系の比喩が多い感じの歌詞を書いてて、それに曲をつけてたんですけど、兄貴がだんだんいい歌詞も書くようになってきて。
僕はポエムだけを書き綴ってる人になって。
Kei:
で、基本的にこっちが歌詞を書くようになって。でもそれも、中学校の間に2人でちょこっとやってたぐらいで、高校はもう灼熱のバスケ部っていう感じで。
ガジャG:
兄貴とバンド組んだメンバーが全員同じ高校のバスケ部なんですけど、割と強くて神奈川県でも優勝したりとかするような部活だったから、引退した後にもう1回キャーキャー言われたいとか、本当にそんな感じだったんですよ。
Kei:
もう1回キャーキャー言われる…やっぱバンドしかねえなって(笑)。
ガジャG:
なんであそこでバンドだったのかっていうのもあるよね。
バスケのクラブチームとかもあるじゃん。
Kei:
バスケには行かなかったね。あまりにも厳しい部活だったから、学校生活では文化祭や体育祭だったり、色々な行事には全て参加できなかった。
りつフラワー:
もう部活1本で?
Kei:
そう。部活に差し支えるような行事は。
部活の時間を削って、体育祭の練習とかそういうのももちろん参加できなかった。
部活をやってる時は全然羨ましいとかそういうのはなかったんだけど、心のどこかであったんだろうね。
文化祭とかでキャーキャー言われてるのとか、“なよなよしやがってよ”みたいに思ってたのに、どこかでちょっと羨ましいっていうのがあったのかな。だからバスケが終わった後にバンドをやろうと。
中学3年の時から兄弟2人で音楽をやってたのも影響して、“自分で曲とか作ってるんだけど、一緒にやらないか?”って部活のメンバーに言ったら、いいじゃんこれみたいな。
ガジャG:
1番仲良かったメンバーでスタートして、一緒に10年。
スラムダンクのモデルになってた世代で
ガジャGさんは後輩なので、部活を続けながら?
ガジャG:
そうですね、部活やりながらふわっと。兄貴が浪人してる時期があって。
大学にストレートで行ったメンバーもいるんですけど、その浪人してる時期が最初の活動の主な時期っていうか、スタートした時です。
僕はほぼ部活引退してて。高校の部活って負けちゃうと割と引退が早くて、夏前に終わっちゃうんで、そこからかな?スタートしたのは。
そこがスタート地点なんですけど、兄貴が大学でアメリカに行くんですよ。
アメリカの大学に行くために勉強してて、浪人してる間がバンドのスタートなんですけど、一旦解散するんですよ。アメリカに行くタイミングなのですぐ解散。
ライブは確か2回だけやって。でも1年で帰ってくるんですよ。
Kei:
バスケをずっとやってて、元々の夢がNBAでした。
2人ともNBAに入りたいって、ずっとそれぐらいのつもりでやってたんですけど、高校2年生でこれから自分の代になるっていう時に、試合中に膝の前十字靭帯を切る怪我をして。
ジャンプシュートしてる時にボキっていったなと思って、その瞬間はスローモーションで自分の足が見えるんですよ。
ボキっていった足を飛びながらゆっくり見て、すごい角度に曲がってるな、これはイったなって。
落ちた瞬間にそのまま救急車。前十字靭帯を切ってて、手術して復活できるまでに1年かかると医者に言われて。
しっかりリハビリして、筋トレやって1年かかるってことは、もう自分の代が終わるから。
代が変わった時に自分がキャプテンになるっていうのもわかってたんで、そんなには休めないなと思って。
すぐに動き出したら絶対また怪我するよっていうのは言われてたんですけど、もう待てなくて。
サポーターしながらやってたら、案の定また前十字靭帯を切ったんですよ。
でも2度手術してもしょうがないんで、切れたままずっと高校時代はやったんですけど。
その状態でもチームは強かったから、県大会で優勝するところまでいったんです。
公立高校が県大会で優勝したのは、あまり例がない。
神奈川ってすごい強いチームがいっぱいあったんで、それこそほんとにスラムダンク。
ガジャG:
スラムダンクのモデルになってたぐらいの世代なんで、もうまさに群雄割拠。
その中で唯一あった公立高校。
まじですか!スラムダンクで言うと、どのチームでしたか?
Kei:
僕が靭帯を切った時に戦ってた相手チームは、言ったらもう湘北のモデル。湘南工科大学附属高校。
それの南を北に変えて湘北って言ってるけど、多分湘南がモデルで、まさに流川楓みたいな人もいたんですよ。1人で50点ぐらい取るような。
それが僕の1個上の台だったんですけど、そのチームとウィンターカップで当たって、まさに試合してる時に怪我したんです。
で、優勝した時は、相手チームが横浜商大。
ガジャG:
山王のモデルになった能代工業が、3年間公式戦で1回も負けたことがないっていう全盛期があるんですけど、そこに田臥勇太さん(日本人初のNBAプレーヤー)がいた。
入学してからの3年間なんですけど、能代工業にその横浜商大が唯一勝てるかもしれないって言われてた学校だったんです。
練習試合で1回も負けたことないって言ってて、その横浜商大と決勝で当たって。
その3ヶ月前、兄貴が怪我して出なかった新人戦では、90対30ぐらいのトリプルスコアで負けてるんですよ。で、県大会の決勝でまた当たって。
Kei:
そりゃ向こうは余裕だと思ってる。
ガジャG:
そこで兄貴が、ほぼ決勝だけだよね?怪我してるから温存してて、決勝だけ出てきて。
あれは相手もビビってたな(笑)。
Kei:
ビビってましたね、面白いぐらいにね。でも全然動けないんですよ。
足を怪我してて、膝もあまり曲がらないもんだから、睨みをきかせてディフェンスしてるんだけど、すぐ抜かれるんですよ。だってついていけないんだもん。
普通だったらそうなんですけど、睨みをきかせてるだけで何も相手ができなかったっていう。
何かが乗り移ってた気がする、あの時。
それ、決勝で勝ったんですか?
Kei:
決勝で勝ちました。延長戦で。
女子チームもその前の決勝で延長になる寸前でブザービーターで勝って、めちゃめちゃ盛り上がってて。
次は男子の試合で、3ヶ月前に90対30だったから明らかに負けるってみんな思ってる。
会場中、もう本当に誰1人うちが勝つって思ってないから。
相手は私立で、応援団っていうか、みんな見に来てる。
ガジャG:
その年はその横浜商大が全国的に注目されてたから…。
Kei:
どれくらいぶっちぎるんだろうって思われてたよね。
ガジャG:
そうそうそう。だから本当にうちの女バスと保護者以外は、誰もうちが勝つなんて思ってないんですけど、蓋を開けてみたら。
Kei:
面白いのが、効かないから痛み止めを医者に言われてた容量の2倍か3倍ぐらい飲んでて。
痛み止めって鎮静剤なのかな?飲んだらめちゃくちゃ落ち着いちゃってて(笑)。
テンションが上がらないっていうか、普通決勝だったらもう心臓バクバク、3ヶ月前に負けてるチーム…負ける気が一切してなくて(笑)。
ガジャG:
ドーピングだよね?!(笑)
精神的な(笑)。
Kei:
目がすわってるって思ってたのかもしれない(笑)。
りつフラワー:
それが怖かったのかもしれないですね、相手は(笑)。
Kei:
でも蓋開けてみたらみんなが調子良くて、あれよあれよという間に点が入って、前半を折り返した時には1点向こうが勝ってるぐらいで折り返して。で、後半終わった時に同点で、そこからシーソーゲームで。
延長になった時に顧問の先生が、“俺は顧問をずっとやってきて、延長戦で1回も負けたことがないっていうジンクスがある”って…なんだそのジンクス、初めて聞いたよ(笑)って思ったんだけど、あの延長は始まってからもみんなめちゃめちゃ調子良くて、まさか相手は延長までなると思ってないから、精神的にもちょっと焦りがあったのかな。
ガジャG:
神奈川のまさにスラムダンクの時期の話だから、勝った時の盛り上がりは、あの瞬間のやつを本当にスラムダンクで描いてたんじゃないかなっていうぐらい、全国大会で優勝したみたいな盛り上がりだったのよ。
Kei:
本当にそうだね。
ガジャG:
応援団も最後下に降りて走ってきて、みんなでわーってなるところって、それこそ甲子園とかで優勝した時のような。それがたまたま県の決勝ぐらいでその感じになるっていう。
あんな風に多分ならないよ。前の試合の女子とかもそこまでにはなってなかった。で、アメリカに行くんだよね。
自分のやりたいことだけはわかったよ
Kei:
そうだったんだけど、もうアメリカにはあんまり目標が無くなってはいて、自分的には靭帯切って、もう1回手術はして治ったんだけど、ちゃんと直しきれるまでリハビリをやってる暇もなくアメリカに行くことになって。
だけど、アメリカでバスケをやりたいっていう目標はちょっと変わったんだけど、とにかくアメリカを知りたくて行ったんですよ。
その時にはもう違う目標っていうか、教えるのも好きだから、学校の先生とかをやってみたいなと。
で、教育学部に入ってちょっと勉強し始めて、向こうの連中とストリートでバスケのスリーオンスリーをやったんだけど。
もうバスケは諦めてはいたけど、やっぱりちょっと引っかかってる部分もあって。
相手は3人とも180cmぐらいで、こっちも友達連中、日本人もアメリカの友達も入ってやって。
そんなに足も完璧じゃないんだけど、ディフェンスしてる時に、パってボールを上に投げたなと思ったら、もう後ろでバックダンクが決まってるのね。
180cmぐらいの相手なんだけど…完全に諦めたね。もうレベルの違いというか。
相手は別にバスケ経験者とかではなくて、普通の誰でもやるようなスリーオンスリーでもこれっていうのは、すごいレベルなんだねと。
自分が完璧な状態だとしても、こんなにレベルが違うのかっていうのを思い知って、綺麗さっぱり諦めがついたっていうか。
日本にいて、もしかしたらちょっとでも鍛えたらなんとか、色々あったかもしれないんだけど、バスケが自分の中では一旦スパンとお終いになったのがその瞬間だった。後ろでバックダンクが決まってた瞬間に。
で、学校の先生をやろうと思って、1年目からなんだけど教育実習みたいなことさせられて。保育園だったり小学校だったり。
僕が英語を教えてほしいぐらいなのに英語を使って教えに行くという…(笑)。
英語は嫌いじゃないから、4年間かけて喋れるようになったらいいなぐらいだったんだけど。
それはそれで楽しかったんだけど、たまたま僕が行った大学がアートメジャーに力を入れてて、音楽とか演劇だったり、学生のステージを観る機会がいっぱいあって。
ちゃんとお金も取って、プロ並みにチケットも販売してやるステージを色々見れたんだけど、みんなめちゃくちゃ目がギラギラしてて。
俺今、あの目してるかな?って。自分の中で、絶対先生になってやるって、目ギラギラしてるかな俺?って。なんか違うかもしれないって、なんか引っかかってた。
アメリカで普通の4年大学に行ったから、勉強がめちゃくちゃ大変で。語学入学したわけじゃなかったから、1日20時間ぐらいやんないと全然ついていけなくて、それこそ寝る間も惜しんでやるんだけど、 提出物とかも多いし、課題も多いんだけど、勉強しながらも曲が降ってくるタイミングがあって。
りつフラワー:
へえ〜。
Kei:
曲が降ってくると、どうしても形にしたくなる。
その大学は夜中でも1日中使えるピアノの教室が何個もあって、夜入れるわけじゃないんだけど、1回入れる時間帯で入っちゃえば、出なければずっと使っていられる。だから曲が浮かんだらずっと入ってた。
そこにはギターがなくて、ピアノを弾いてたんだけど、それでもなんか形にしたくてずっとやってて。で、気づくの。こんなことやってる場合じゃねえじゃんって。課題まだ終わってないわ、みたいな。
でもそれがずっと続いてて…“うん、音楽やりたいのかも”って思って。
それを相談できる友達がいたから、音楽やってみたいんだよなって言って。
で、どうしてもそこでまたフォークソングに帰ってくる。
アメリカで作ってるのに、英語じゃなくて日本語で作りたい、日本語で歌いたいっていうのを相談したら、“すぐ帰った方がいい、今やりたいことを絶対やった方がいい、バンドがやりたいんだったら、こんなところに今いるべきじゃない”って言ってくれる友達がいて。
“自分もやりたいことを突き進んできて、今はこの場所にいるけど、あなたもやりたいことがあって、それがここではないんだったら、今すぐやった方がいい”って。
両親に無理言って1年ぐらいアメリカに行かせてもらったんだけど、“俺、日本で音楽やりたいんだけど”って電話したら、母ちゃんにブチ切れられて。そりゃそうだよね。
ガジャG:
怖いんだよね、うちの母ちゃん(笑)。
Kei:
“1年アメリカに行ったぐらいで何がわかったの!!”って言われて。
その時に言い返したのは、“1年行っただけで、確かにアメリカのことは何にもわかんなかったんだけど、自分のやりたいことだけはわかったよ”って言って電話を切ったのを覚えてる。
その時に5分ぐらいで作った「夢」っていう曲が、SOONERSの第2章の1曲目になるのかな。
で、バンドメンバーにも連絡して、“俺帰るわ、一緒にもしよかったらバンドやらないか”ってみんなに電話して。
で、最後がガジャGだった。ガジャGは次の年に、同じ大学に入ってくる予定だった。
スコア的にはアメリカに行けるまであと1歩っていうところで、“俺は無理して誘わないから、自分がやりたいことをやった方がいいよ、でも俺は帰るわ”って言ったんだよね。で、悩ませたところ…。
ガジャG:
それで、僕の最終学歴が高卒になるっていう(笑)。
兄貴が帰ってきて、最初はまだ違うバンド名で活動してたんですけど、名前を考えてた時にちょうど家にパソコンが来たんですよ。
憧れてたバンドがあって、高校の時に勉強で英語のラジオを聴いてたんです。
で、その合間に音楽が流れてくるんだけど、すっげえかっこいい曲があって、The Merrymakersっていうバンドだったんですよ。たまたま図書館に置いてたオムニバスCDにその曲が入ってて、それだけをもう2時間ぐらいかな、ずっとその1曲をリピートして聴いてて。
Kei:
てか、絶対大学受かんないよな、お前(笑)。
ガジャG:
でもその時は、1曲のためにアルバム買うのに3000円とか、高校生だったしどうしようかなとか悩んでたわけ。
そしたら、地元の駅を降りたところに…昔って電気屋にCD置いてあったりするじゃないですか。ちょっとだけCDコーナーがあるみたいな。
そこになぜかね、The Merrymakersのアルバムが置いてあった。
その店ではたまに洋楽とかを見てたんですけど、“えっあの曲のアルバムこれなんだ”って、それはさすがに買って。
バンドが活動再開して、バンド名どうする?ってみんなで話し合いになった時に、たまたまThe MerrymakersのCDにメールアドレスが書いてあったの。
このアドレスにメール送ったら返信あるのかなと思って(笑)。あるわけないじゃん、普通。
で、メール送ったら本人から返信が来て。最初はすっごいファンですって返信して、またボーカルのデイビッドから返信がきて。
』おこがましい感じなんですけど、“今やってるこういうバンド、The Merrymakersに憧れてて、バンド名つけてもらえませんか”ってメール送ったら、しばらくして、「THE SOONERS」ってどう?ってメールが来たんですよ。
で、“「THE SOONERS」いいじゃん、The Merrymakersにつけてもらったんだよ!”って決まって。
りつフラワー:
すごい。
ガジャG:
The Merrymakersはスウェーデンのバンドなんですけど、後々に知ったのは、ビートルズを神と崇めてるバンドだった。
自分も幼少期にビートルズで育ってるからすんなり入ったのかなっていうのはあるんだけど。
最初はポップロックにすごく憧れて、もうちょっとサイケな、クイーンとかビートルズの後期の感じとか、そういうのに。
SOONERSの1番最初はしばらくそういうことやってたよね。
曲終わったらタンバリンを落とすみたいなさ(笑)。
これがポップだ、みたいな(笑)。
Kei:
曲終わりに必ず何かしらね…グラスをガチャンて割るとか(笑)。
ガジャG:
メンバーいないのに鍵盤入れたりとかね(笑)。
もうとにかくいろんな実験的なことをやって、自分たちで宅録して。
今だったらパソコンのDAWだけど、1番最初は家にあったただのコンポ。
マイクの端子が2つついてて、その端子を4つぐらいに分けて、電気屋で買ってきたカラオケのマイクで、“せーの” で全部カセットテープに録ったりとかして。
Kei:
コンポから次は・・・
ガジャG:
ヤマハのカセットテープのMTRにいって、それも散々使って。
そもそも4トラックなんだけど、それを分けに分けて、 何トラック入れるんだよっていうことをやって、そこからMDになる。
ヤマハのMD8、もうこれは駆使しましたね。MD8の8チャンに25トラックぐらい録ってた。
もう重ねては全部まとめて重ねてとかいうやり方をやって、次はヤマハのデジタルのAW4416っていう16トラックのMTRにして。
もうずっとMTRなのよ。だってまだパソコンのデスクトップミュージックみたいなのはまだなかったから。
Kei:
その当時は無かったっていうか、もっと専門的な現場で使うものだったから。
ガジャG:
MTR→MTR→MTRと行って、最後はDAWみたいなソフトに行かなかったっていうね(笑)。
Kei:
プロツールスには結局行けずに(笑)。
ガジャG:
最初の10年、今もそうなんですけど、僕がバンマスみたいな感じで、楽曲のプロデュースとかは僕がやるっていう感じで。
アレンジはバンドみんなでやるんだけど、核になってるのが自分で、20代の時にめちゃくちゃ音楽のヘビーリスナーだったんですよ。
25歳ぐらいから聴力も落ちてくるからそこまでにと思って、もうとにかくいろんな音楽を聴き漁っていった時に、昔の音楽の音の良さにどうしても縛られちゃうところがあって。
自分でもパッと作れるんだけど、音にこだわるためにはもうめちゃくちゃ金がかかるなと思った時に、振り切ってどんどん機材を揃えていくのか、レコーディングはレコーディングスタジオなりエンジニアのプロにやってもらうかのどっちかだと思って、僕らはプロに任せる方を選んじゃったんだよね。
だから未だにデモを作るときはMTRを使ってるんですね。そのAW4416はまだ生きててずっと使ってるし、次どうする?なんていう時もまたMTR買うかって(笑)。
今のMTRって、パソコンにそのままトラックを書き出せる機能があるんですけど、昔は無くて。
だからミックスを誰かにお願いする場合、その録ったやつを、1トラックにつき1枚、CD焼くんですよ。
意味わからないですよね?(笑)。1トラックにつき1枚、CDでWAVのファイルを焼いているんです。
りつフラワー:
あー、例えばコーラス1トラックにつきCD1枚…。
ガジャG:
そう。その16トラックの中で裏チャンネルみたいなのも、ミックスはその中でやるわけじゃないから、30トラックとか録ってるわけ。
バルクの50枚のCD-R買ってきて、1枚ずつ焼いて。それはね、めちゃくちゃ大変でしたから。
だからパソコンでDAWにしろよって思うんだけど、なんか変なこだわりがあるんだろうね。
兄貴は基本的にほとんどパソコン使わないから、今はもう携帯だもんね、曲を録るのは。
ZOOMの6トラックぐらい録音できるやつで録音して、携帯で送ってくるんだけども、それもね、最初にバンドルでCubaseとかと合わせて、インターフェースでも使えるやつなんだけど、そんなのもやらずにね。
Kei:
ですね。
ガジャG:
やらずにずっと、そういうアナログなことをね…ただのジジイじゃん(笑)。
りつフラワー:
でも、そのデモめっちゃいい。デモで泣きました。
ガジャG:
20代でメンバーが5人だった時は、MTRの宅録で自主制作で最初にCDを作って、手売りで1年ぐらいで1000枚売って、それでストリートライブの機材とかを全部買い込んで。
2000円で1000枚売ってたから200万円手元にあって、60万ぐらいは確か、バンドの機材、アンプ、スピーカー、ミキサーとかを買って、あとの百何十万は全部次のアルバムのレコーディングに使ってセカンドアルバムを作って、それは初めて全国で発売されました。
『PLUG IN』っていう、未だにサブスクでも聴けるアルバムです。
12曲中の10曲はレコーディングスタジオに入り浸ってレコーディングしてて、その時にエンジニアやってくれた人と、今でもずっと付き合いがあって。
Kei:
その人が『PLUG IN』を作ってる時はもう泣きに泣いてくれて。
すげえいい人で ファーストアルバムからお世話になってるんですけど、セカンドアルバムは140万ぐらい払ったんだけど、実質時給で計算すると100円ぐらいな感じでやってくれて。
ガジャG:
そのエンジニアさんにとっても、それだけ時間とお金かけてやったアルバムが今まで無かったから、それで仕事になったって、後々話してくれて。
で、いまだにレコーディングをそのエンジニアさんがやってくれてます。
彼は今もレコーディングもやってるけど、マニピュレーターでめちゃくちゃメジャーなアーティストの現場にいっぱい行ってます。
Kei:
たまたま僕と同い年で、川崎出身でね。
東京バンドサミット
ガジャG:
ちょっと話が戻ると、バンドの10年のハイライトになるのは…最初はすごい成り上がろうっていうバンドだったんで、ストリートライブとかをやりながらまずはクラブチッタを目指して、1000人集めるぞって。それで自力で750人ぐらい集めて。
そういうことやっていくと、どんどん注目されて成り上がれるんじゃないかっていうのがあったんだけど、やっぱり実力も伴ってないから、なかなかオファーがなかったんだけど、その後7年目、8年目ぐらいに、東京バンドサミットっていうヤマハとKDDIが主催してる、スタジオから応募するコンテストが始まって。
1年目に出た時に、オーディエンス賞とベストボーカリスト賞っていうのをもらったんですよ。でもグランプリは取れなかった。
2年目ぐらいから徐々にそのコンテストが注目されるようになって、2年目にもう1回出ました。
2年目は、KDDIのデザイニングスタジオにちょっとしたライブスペースがあって、それにもう1回チャレンジしたんですが、またグランプリは取れなかったんです。
でも、KDDIデザイニングスタジオの館長さんとめちゃくちゃ仲良くなって、KDDIデザイニングスタジオ賞っていう、特別賞みたいなのをもらったんですよ。別に仲良くなって癒着してもらったとかじゃなくて(笑)。
2年目は本当にグランプリを取る気だったけど取れなくて、もうさすがに3年目は、同じコンテストに同じバンドが3年出てくるってのは…ってスルーしてたんですよね。
そしたら、締め切りの最終日、いつも使ってて仲良いスタジオの人に、“あれ?SOONERSさんまだ出てないですよ今年”みたいな、冗談なのか本気なのかみたいな感じで言われて、いやもう2年出て、しかも賞ももらってるから、もうさすがに出れないし、あとさすがにもう出す音源が無いわって。
でもSOONERSさんには出てほしいってその時に言ってくれて、その場でリハーサルで音録ってたMDしか無いんだけどって、それで最後応募したんですよ。
それで1次審査通って、2次審査がライブ審査、映像審査みたいなのなんだけど、落ちたかなと思ってたら、なんかダントツで行けたらしくて。
それでファイナルでは必ずカバー曲を1曲やらなきゃいけないけなくて、カバー曲ではアレンジのセンスとかを見る。
前の2年は洋楽のカバーをやったんですが、3年目は岡林信康さんをやったんですよ。
原点に戻って自分たちのカバーとしてね。「自由への長い旅」っていう曲をバンドアレンジしてやったら、手応え的に言うと、カバー曲でもう決まったなって感じがしました。
Kei:
すっげえいい曲で、やっぱり1番大好きな人の曲だから、ただ歌えるようにするとかじゃなくて、自分の曲になるまで歌い込んで、メロディーとかアレンジも自分たちの感じに変えて、自分たちが表現しっかりできるところまでやり込んでいったっていうか。
それまではカバーとコピーとか、何が違うんだろうなぐらいしか分かってなかったんだけど、自分たちの曲になるところまでやっていって。
だから、あのカバー曲でもう決まったなっていうぐらいで。
審査員の人たちも、まさかここで岡林信康さんの曲が聴けると思ってなかったと思うんですよね。
フォークソングをカバーしてくるのは多分斬新過ぎて、それをロックとしてアレンジしていったから。
ガジャG:
自分たちの曲ももちろん演奏するんですけど、審査員が西川進さん、ROLLYさん、SEX MACHINEGUNSのHIMAWARIさんの3人で、めちゃくちゃ辛口なんですよ。
それまで僕らの前に10組ぐらいやってたんだけど、もうボロクソ言われてて、俺らも何言われるかなっていうのはちょっとあった。
そういう感じだったんだけど、終わった後審査員の3人がめちゃくちゃ興奮してて。
最初HIMAWARIさんが、ドラムの1音1音に込めてる感じとか、最後のコーラスがあって、そこまで前の2人が歌ってて、1番最後のセクションに全員がコーラスするパートがあるんですが、“まだおんのかい!(笑)”って、そんな感じで、“最高でした。”って。
そしたら隣でROLLYさんがまだマイク来てないのに、“ちょっと俺も言わせて、SOONERS最高。”って言ってくれて、すごい衝撃的でした。
その時ベースがあまり褒められることが無かったんだけど、グレッグ・リーっていうベーシストがいて、もうその人を見てるかのようなぐらいいいパフォーマンスでしたって。
で、西川さんだけは3年間見てくれてたんですよ。それも覚えてくれてて、“最初から賞とか取ってて、3年間見てきたんだけどすごい成長を見れて”、って言いながら泣いてくれて。
最終的にグランプリ取って、その時にケーブルテレビが入って、決勝の模様をケーブルテレビで流してくれて。
そしたら、たまたま岡林信康さんのファンの方が、今若いやつがこういうことやってるよって、岡林さんにその映像をダビングして渡してくれたらしくて。
後日、岡林さんから手紙が来たんですよ、ご本人から。
そこから岡林さんとも何度かお会いして、岡林さんがフェスに出た時に招待してくれて。
僕らがその出演の直前まで喋ってるっていう、奇跡のね。
Kei:
奇跡よね。岡林さんが手紙と一緒に、昔のレコードだったものがCDになったものを、ごっそり送ってくれて。
手紙にも、自分はフォークの神様って言われてたんだけど、フォークじゃなくてロックとして表現してくれたのがすごい嬉しいって。
自分はロックのつもりでやってたのに、いつの間にかフォークの神様みたいに言われちゃって、みたいな。
“もしよかったら、もう今は自分はそのCDになってる曲たちは歌うことがないんで、歌う機会があったら歌ってほしい、だけど自分のオリジナルがあるんだったら、やはりそちらを歌う方がいいですよ”、みたいな感じで言ってくれて。
ガジャG:
その手紙を額に入れて飾った(笑)。
Kei:
だから多分僕だけじゃないかな、岡林さんの歌、カバーしていいの(笑)。
りつフラワー:
公式(笑)。
日本語が世界に通じると思って
Kei:
あれはもう本当に泣いたね。岡林さんへの憧れから音楽が始まって。
岡林さんはアナログで、携帯も持ってないから情報があんまり出てこない。
たまたまうちのギターのやつがライブハウスのチラシを見てたら、岡林信康って書いてあったぜとか教えてくれて。
ガジャG:
月見ル君想フっていうライブハウスで。
当時、岡林さんが1回引退して岐阜で農家をやって、その後にカムバックしてきてて、今度は日本のロックってこれだろって、和太鼓とかを入れたお囃子ロックをやってて。
そのライブをたまたま
見つけて観に行って。
Kei:
自分たちがコンテストでグランプリ取って、手紙とかもらった後の話なんですけど、観に行って、もうライブ中2時間ずっと泣いてるっていう(笑)。
ガジャG:
“えんやどっとでお祭り騒ぎ”って言ってんのにずっと泣いてた(笑)。
でもバンドとしては、そこがピークみたいになっちゃって。
その後に渋谷のO-WESTでワンマンライブをやるんだけど、そこに向かっていく時にバンドメンバーの年齢は、僕は29歳、兄貴は31歳の年かな、確か。
徐々に家庭とかそういうことも出てきて、ワンマンライブに向かっていく3ヶ月前ぐらいで、ちょっとずつ気持ちがいろんなところに向いて行っちゃって。
で、7月にO-WESTでワンマンライブをやって、8月にアメリカで…その時アメリカでCD BabyっていうところでCDを委託販売してて、あっちのインディーズのアワードにノミネートされて、授賞式に来ませんかって案内が来て。
嘘くさすぎて、急にそんな授賞式にとか言われて(笑)。
でもよくよく調べたら、「JUST PLAIN FOLKS WORLD MUSIC AWARD」っていうすごいちゃんとしてるでかい授賞式で。
Kei:
インディーズ版グラミー賞みたいな。
ガジャG:
そうそう。そのアジア部門にノミネートされて、行ってみるかと。
ナッシュビルに行ったんですけど、その時まだバンドは5人組だったけど、実費で行かなきゃいけないから3人で行って。
3人で前夜祭でパフォーマンスがあって、スタンディングオベーションになるの。
アメリカに帰ってきて日本語で歌うんだけど、その時はお客さんじゃなくて、世界中からミュージシャンたちが集まってきてるんですよ、授賞式に。
僕らは5分とかのステージで1曲なんですけど、終わったらもうブワーとスタンディングオベーションで、もうみんなが名刺出してくるのよ。
もう囲まれて、アメリカンドリーム来たなと(笑)。
Kei:
やる前はちょっとね、日本人がこんなところで何してる?ぐらいな雰囲気で見てて、全然迎え入れてくれようとはしてなかった。
だったんだけど、演奏が始まって、1番と2番の間ぐらいでもう拍手があって、終わった時にはスタンディングオペレーションになってて。
あの時に初めて、自分たちが日本語で伝えたかったこと、日本語が世界に通じると思ってやってきたことが実ったっていうか、間違いじゃなかったんだなって。
しかも思いがあるものは言葉を超えていくっていうか、音楽は言葉を超えて伝わるものなんだなって。
もう3人になってて、5人でやりたかったんだけど、でもその時は間違いじゃないなって初めて思えた瞬間でした。
言葉が聞こえてる=伝わってると思ってた
ガジャG:
で、そこから徐々に1人ずつ抜けていって、最終的に2人になって。
2人になった時に1番衝撃だったのは、自分たち的にはできると思ってたけど、それまでのファンの人たちは5人組のSOONERSを追っかけてたんだなっていうのがまずあって、集客もきつくなって、本当にどうしようかなってなった時に、一度はもう解散しようって。
これがもうほとんど映画なんですけど、2人で同じ飲食店で普段仕事してて、ずっと同じところではないんだけど、その時は同じところで働いてて、キッチンで2人で並んでるわけです。
もう雰囲気も悪くて、3か月ぐらい活動休止とも言ってないのに、全く活動してなくて、もうちょっときついなって。
だからもう一旦SOONERSは解散して、兄貴はソロでやってったらどう?今まで通りサポートするから1人でやってった方がいいんちゃう?みたいな話もしたんだけど、なかなかうんって言わないんです(笑)。
そこで、たまたま知り合いと飲みに行くタイミングで、新曲できたからって聴かされた曲があって、それが「RAY CHARLES」っていう曲なんですけど、その曲聴いた時に、もう1回いけるかもって思って。
その曲があったからもう1回、2人でSOONERSやろうっていう気持ちになって。
そこから色んな出会いがあるんですけど、その中でダイナマイトしゃかりきサーカスっていうコーラスグループに会って、ツアーのバックバンドとして起用してくれて、ツアーを一緒に回って。
各地で僕らのことを紹介してくれて、自分らのステージもちょっとやるようになって、今度は大阪の方で結構受け入れてくれる人がいて。
で、しばらく東京では全然やらないで、大阪とかばっかりライブやるようになって、そのダイナマイトしゃかりきサーカスの繋がりで、ようやくここで出てくる三浦剛さん(笑)。
三浦剛:
編集大丈夫ですか?(笑)
ここまでの時間が長い(笑)。
(笑)
ガジャG:
そこで三浦さんに出会うんですよね。
三浦剛:
3☆COLORSね。僕は俳優をずっとやっていて、1998年にデビューして、演劇集団キャラメルボックスという劇団をずっとやってて、30歳になる時に、西ノ園達大という俳優兼シンガーソングライター、悠晃(ゆうこう)っていうPhew Phew L!veというアカペラグループの元メンバーと…Phew Phew L!veはゴスペラーズさんより先にもスマスマのクリスマススペシャルにゲストで出るぐらいのグループなんだけど、その3人で3☆COLORSというユニットを作って、最初は横浜のサムズアップとか、南青山MANDALAで、プロのミュージシャンと歌い手3人とで、お芝居&音楽&ライブという、芝居兼音楽をやってました。
お芝居はするわ、借り物競争はするわの中から音楽が始まったり、歌になったり。で、2部がライブっていうのをずっとやってましたね。
その時に僕は役者だから歌いたくないって言ってたんだけど、歌えって言われて。
こんなCD出してるような人たちと、自分は何しようかって考えた時、僕は手話ができるので。
それで手話ソングを始めて何年かやって、たまたまバックの人たちのスケジュールが合わない時に…ダイナマイトしゃかりきサーカスのKWANIさんは、元々Phew Phew L!veにいたメンバーで、悠晃とは仲良しなんです。
しゃかりきとはよく一緒にやってたんだけど、何かの時にSOONERSを紹介されて、じゃあ一緒にやってみようって。僕らの場合、台本を作るんで。
ガジャG:
初めての劇盤だよね。
三浦剛:
SOONERSの『IN THE MAKING』ってアルバムの1曲目から、曲が全部芝居になっていく。3☆COLORSの他の2人はソロ活動もやってるけど、僕だけしてなかったので、このSOONERSとだったらソロ活動できると、一緒にMusic Signというユニットを始めました。
ガジャG:
三浦さんが3☆COLORS以外で、僕らの曲で手話ソングをやってくれるっていう。
三浦剛:
僕は1曲も歌わない。
ガジャG:
最初手話ソングって、イメージは酒井法子さんしかなかった。
Kei:
それしか見たことないし聞いたこともないからね。
ガジャG:
そうそう、イメージがわかなかった。それで3☆COLORSの本公演と言われる、お芝居のやつに呼んでいただいて一緒にやった時に、これはもうアートなんだなって。素晴らしかった。
1番感じたのは、自分たちが歌う歌がより深くなる。やっぱり手話パフォーマンスでもあるし、役者さんでもあるから、表現力がすごいのと、それで新しい世界が自分たちで見えて。
9年前くらいに、初めて一緒にワンマンライブをやって。
それまで他の人と一緒にワンマンライブをやることもなかったんだけど、めちゃくちゃ盛り上がったし、福祉の関係とかいろんな繋がりが出てくるなって。
三浦剛:
SOONERSのレコーディングもしているエンジニアさんと4人で、聾学校でライブをしたんですよ。
全員耳の聞こえない子供たちが、幼稚部から高校生まで。
Kei:
つよぽんがセンターにいて手話パフォーマンスが真ん中、自分たちがサイドで歌うんですけど、つよぽんがいても耳が聞こえない人たちに向けて何を歌えばいいんだろうっていう思いが初めあって。
普段込めてる思いをさらにもっと、普段が120%だったら、200%ぐらい込めないと絶対伝わらない。
だからもう何を考えてもしょうがないから、全力で伝えたい思いを歌として声に出す。で、それを受けてつよぽんが手話をする。
終わった後にアンケートを書いてくれて、そこに“すごい歌良かったよ”とか、 “歌聴こえてきたよ”って言ってくれたり、“新曲出たら聴いてあげるよ(笑)”って書いてあって。
三浦剛:
1曲目から手拍子をしてくれたんですよ。あれで感動しましたね。
Kei:
1曲からもう大号泣なのこっちは(笑)。
三浦剛:
聾者って手拍子嫌がるんですよ。なぜかというと、人とずれるから。
だから1曲目から手拍子が始まった瞬間、俺も泣いたし。
ガジャG:
メンバーが2人になった後、三浦さんとの出会いが1つの分岐点になって、自分たちのパフォーマンスが今の状態になるきっかけになったのが、やっぱりMusic Signと出会ったこと。
特にその聾学校の公演が1番。今まで年間でも結構な本数、一緒にツアー行ったりとか、ホール公演もあれば、ちっちゃいところでもやったりとかするんですけど。
三浦剛:
日本語を伝えたいって言ったら、僕のライブじゃないんですよ。
Music Signはいろんなアーティストが出るけど、僕は視覚スピーカーなので。
SOONERSの思いを表現してるだけで、僕が何かを生み出してるものじゃないので。
Kei:
歌の原点、歌ってなんだろうってなった時に、自分の言葉が聞こえてる=伝わってると思ってたんですよ。
でも、聞こえない人たちに伝えるためには、思いを届けなきゃいけない。
で、思いがあれば聞こえなくても伝わることがあるんだなって知った時に、今まで俺の歌ってた歌ってなんだったんだろうって。
だから逆に、声が聞こえてても、思いのない歌は伝わってないんじゃないかなっていうことに、ようやくそこで気付いた。
だから自分たちは突き刺すような思いを常に持って、思いのあるライブをしたいなって。
三浦剛:
僕がいなくて手話パフォーマンスがなくても、聾者の女の子がわざわざ神戸から東京までSOONERSのライブに来てくれる。
前の方で口を読み取りながら。彼女はいろんなとこ来てくれたんだよね?
Kei:
Music Signで1番初めて会った時、来てくれてた女の子だったんだけど、その時はちょっと生きることに自信を無くしてたみたいで。
なんでかと言うと、初めはちょっと聞こえてたんだけど、どんどん聞こえなくなっちゃって、今はもうほぼ完全に聾者なんだけど。
1番初め、手拍子してねってライブで言った時に、すごく周りを気にしてる女の子がいた。聞こえてないから合わせるのが難しい。
だけど、音楽って手拍子が合ってようが合ってまいがそんなことはあまり関係なくて、自分の思ったところで手拍子してくれれば、それが重なって新しい音楽になっていくわけだから、みたいなことを僕は言ったの。
それをつよぽんが手話で通訳してくれて、そうしたらニコって笑いながらあんまり気にしないで手拍子してくれて。
ライブが終わった後、ライブハウスのマスターが、その女の子からメッセージが来たよって。
“実はこれこれこういう理由でちょっと生きる希望とかを無くしててっていう時に、この音楽に会って、生きていける気力をまたいただきました”、みたいな感じで。
そこからもう大号泣で、音楽やっててよかったと思って。このためだったのかもしれない。
三浦さんがMusic Signで伝えたいのは、一言手話で“ありがとう”っていうことを伝えたいというのが1番の原点で。
日本人みんなね、英語でサンキューは知ってるのに、手話で“ありがとう”は誰も知らない。
三浦剛:
知らない人たくさんいるからね。
Kei:
それを一言伝えたいがためにMusic Signをやってて、1番最後に“ありがとう”ってやるんだけど、正直僕は“ありがとう”って1個わかってても、そんなに世界は変わらないよって初めは思ってたんですよ。
“ありがとう”って伝えていったところで…って思ってたんですけど、ライブが終わった後に、ネイルアーティストをやってるファンの人が、たまたま聾者の方がネイルをやりに来て、自分が手話で喋れるのって“ありがとう”しかないけど、1番最後に勇気を振り絞って“ありがとう”ってやったら、めちゃくちゃいい笑顔になったっていうのを自分に話してくれて。
三浦さんすごいな、その一言で世界って変わるんだってファンの人から教えてもらったんです。
そういうエピソードもあって、 10年間一緒にやってきてるのかなって。今でも一言、“ありがとう”を伝えていこうってことで。
だから聞こえてる人には、視覚スピーカーじゃないけど、自分たちの日本語の歌詞のもっと内側に秘められてる思いみたいなのを手話でやってくれてるような感じがして。
ただ単に直訳して手話で自分たちの歌詞をやってくれてるわけじゃなくて…。
三浦剛:
意訳だね。意訳をしないと聾者に伝わらないので。
Kei:
だから三浦さんがしっかりと聾者にも伝わる手話でやってくれて。
だけど初めて聴く、耳が聞こえる人たちにも、もっと言葉が入ってきた気がしました、みたいな感想がすごく多くて、これはやってる意味がすごくあるんだなって。
新しい表現の仕方なんだなと。
その空気はアルバムに入ってるかなって
ガジャG:
『F=』っていうアルバムがあるんですけど、1曲目と最後の曲以外、真ん中の15曲はレコーディングライブで録ってて。
ライブレコーディングではなくて、普段自分たちがやるレコーディング風景をお客さんに見てもらおうみたいな。
なのでレコーディングライブ…ほぼほぼライブだったわな(笑)。だったんですけど、コールアンドレスポンスとかそういうのを録るためにレコーディングライブをしてるわけじゃなくて、本当にシーンとしてる状態。終わった後もすぐに拍手しないでくださいって。
レコーディングの風景を録るっていうので、手話パフォーマンスやってもレコーディングに入らないじゃないですか。
もちろんそうなんですけど、三浦さんにも来てもらって。
三浦剛:
そう、“つよぽん来れる?”って。CDでしょ、いらなくない?って(笑)。
でもライブだから、空気感が出てるんですよ。
Kei:
1番初めすごく大変だったのは、自分が歌ってるのに誰も僕の方を見てないんですよ。
三浦さんに視線が集中してるっていう面白い感覚。
自分はどうしても届けたくて歌ってるのに、誰も僕を見てない。
でも今では自分が歌いながら、真ん中のつよぽんの手話から自分の声が出てるかのような感じで歌えてるし、自分のテンションによってつよぽんのパフォーマンスが全然違うんで。
めちゃくちゃノってる時の、一緒になってそれを伝えに行ってるのは音じゃないんだけど、俺らの中では一音増えてる感じなんですよ。
本当に楽器が増えてる感じがするような。
ガジャG:
いや、もう本当だよね。
Kei:
だからやっぱり、隣で手話をやってくれてる時は、自分の表現の仕方とかも絶対変わってると思ってて、その空気はアルバムに入ってるかなって。
学校で曲を作って、 MVまで作るプロジェクト
ガジャG:
Music Signがなかったら続けてこれなかったかなっていうのもあるし。
でも20代の頃と何が違うと言ったら、最初にも言ったけど成り上がろうとしてたから。
デビューしてないバンドはもうバンドじゃねえみたいな。
メジャーデビューできてなんぼじゃないけど、そういう気持ちでやってて。
しかもメジャーデビューも、出すだけじゃなくて、売れてる本当の意味でのメジャーみたいな、そこだけを目指してたんだけど。
結婚もして子供も生まれて、30代になってからは…今まではライフワークって言われるものは趣味だと思ってたんですよ、20代の半ばぐらいまでは。
ライフワークでやってんのだせえ、趣味じゃん、みたいなことをよく自分たちで言ってたような気がするんですけど、今はライフワークでやってます(笑)。
別に趣味っていうわけじゃなくて、バンドって長く続けていくのはやっぱりすごい大変なんだけど、長く続けていくのが1番重要だなと思ってはいて。それができるようにやってるのが今の自分たちの現状だし。
昔は本当にヒット曲を、今ももちろん諦めるっていう話は全然なくて、でもやっぱり自分たちの子供たちの世代に1曲残したいな、1曲残せるまでは続けなきゃなっていうことも思ってはいたり。
でも子供たちが大きくなってきて、 最近PTAやってるんですよ。
で、兄貴も今年初めてPTAの役員やるからね?
三浦剛:
会長と書記(笑)。
ガジャG:
同じ学校なんですよ、娘・息子が。
学校とも最近関わってて、うちの学校で子供たちが街をテーマにして曲を作って、 ミュージックビデオまで作るプロジェクトを学校でやるってなって。
Kei:
1年間プロジェクトね。
すごい。
ガジャG:
SDGsをすごく推進してる学校なんですけど、そういうテーマでやってるNPO法人の映像関係の会社とコラボすることが決まり、そこに音楽部門として、保護者なんだけど元々僕がPTA会長やってたのもあって先生たちと仲良くて、音楽やってるし、自分の娘の学年でもあって、作詞作曲とかレコーディングをお手伝いいただけませんかってオファーがあって。
仲間内みんなで行って、一緒になって子供たちと曲作って。で、この間2月に出来上がったミュージックビデオが公開になったんですよ。
今Youtubeで観れるんで。
そういうことをやってる学校だから、いろんなところに校長先生が呼ばれていって話したりするんですけど、校長先生がラジオでそのミュージックビデオの経緯を話したりする中で、ちゃんとSOONERSの宣伝もしてくれて。
学校の先生がラジオでSOONERSって言ってるの、面白いじゃん(笑)。
そういうことを今やったりとか。
三浦剛:
この前、中学校でサプライズでライブするから来てって。
中学生のノリでね、出てきた瞬間、ガジャGは小学校の元PTA会長だから、2・3年生から黄色い声援が出てて、うわー黄色い声援が出るPTA会長っているんだって(笑)。
しっかり思いが届いた瞬間。
Kei:
バンドは2人になっちゃったけど、もし5人のままだったら出会わなかった人たちが多いのかなっていうところもあって。
逆境をチャンスに変えるじゃないけど、2人になってからの方がいろんな出会いがあったり、それを改めて大切にしていこうというか、結局出会いなのかな、自分たちのバンドを支えてるものは。
出会いっていうのはすごく大きい。だから、つよぽんとの出会いもそう、ダイナマイトしゃかりきサーカスとの出会いもそう。
そういう人たちと出会って、5人ではできなかったコラボだったり。
2人になってフットワークは余計に軽くなったんで。
ガジャG:
だから今はいろんな座組でツアー回ったり。
三浦さんだけじゃなくて、他のバンドと同じ車で一緒にツアーに行ったりとか、三浦さんやヨティも一緒にいて、プラス他のバンドとかで。
最近りつフラワーとも出会って、ちょっと口説いて誘って。
りつフラワー:
私からも好きです!最高です!っていった感じですけどね(笑)。
ガジャG:
いやいやいや(笑)。
今年25周年なんで、2人でももちろんいっぱいやるけど、もう1回面白いバンドやりたいなっていうので、そこのピースとして、りっちゃんには女性鍵盤コーラスみたいな立ち位置でやってみない?って言って。
2人でやる時はアコギとカホンなんですけど、今年はドラムも叩いて、バンド編成ももう1回やろうかなって。
Kei:
5人の時はロックバンドみたいな感じだったんだけど、結局2人になった時にどこでも同じスタイルでできるようにって。
この時はバンド、この時はカホンとかアコースティックで、じゃなくて、SOONERSといったらこれですっていうので、今の編成にしました。
ライブの本数が2人になった後の方が増えて。
ガジャG:
バンドの頃は月に4、5本 ライブやるぐらいだったけど、それが2人になってからは、多ければ3日に1回ぐらいライブやってるような状況で、ほとんどライブとリハーサルが合体してるっていうか。
リハーサルもやるんだけど、例えばこの日はドラムだからとか、他のメンバーを入れてやってる時間がやっぱりなくなっちゃって。
子育てもやりながらだから、これはもう1本で行けるスタイルに変えようって。
Kei:
ライブバーとかでやることも増えてきた。
ガジャG:
前はライブハウスのみだったけど、やっぱり最後の最後まで…。
Kei:
カホンになるにも、俺はパーカッショニストじゃねえみたいなところは、やっぱりドラマーだからあったんだけど、最終的に俺らは2人で何伝えたいの?ってなった時に歌だよなって。
だからもう楽器は関係無いんだよね。歌が1番伝わるのって今のこの編成だからアコギとカホンだなって。
最終的に歌を伝えたいから、2人で歌うスタイルになったっていう。
ガジャG:
なんか昔からそうなんだけど、弾き語り最強説があって(笑)。
最終的に曲が良ければ弾き語りで1番いい状態で聴かせられるはずって思ってて。
逆に他の楽器の音が入ることによって、歌詞にいろんなものが入ってくるから気が散っちゃって、伝わるものも伝わらなくなるのがほとんどで。
それをどうやって2人とか他のメンバーを入れて詰めてやっていくかってなったら、抜くことも大事だし、“みんなの気持ちを1つに歌いながら弾く”っていう、そこが1番重要で。
でもやっぱりバンドマンがすごい好きなんで。だからりっちゃんに声かけたのも、話してみて、めちゃくちゃバンドマンじゃんって。
りつフラワー:
(笑)
ガジャG:
なんかそれがすげえよくてね。
Kei:
歌をバックグラウンド、気持ちの部分から入ってくれる。
ガジャG:
そうそう。
Kei:
この主人公ってどういう性格ですか?って。知らねえし(笑)。
この女性の性格ってこっちの性格ですか?こっちの性格ですか?…って。
知らねえし(笑)。
りつフラワー:
それで歌い方が変わるなって思って(笑)。
Kei:
それですごいと思って。
ガジャG:
バンドになっても、逆に今は1番歌がよく聴かせられるようなアレンジにしたり。
今までは自分たちがこのサウンドかっこいいと思うものだけをやってたんだけど、そうじゃなくて、1番歌をガツンって聴かせられる、1番迫力があるのが歌なんだなってこと。
Kei:
楽器よりもね。
ガジャG:
思いがドンって来た時に迫力に変わるんだなって。
今まではバンドで、サビででかい音になるとか、サビでゲインが上がる、みんなが入ってくるとか、それが迫力だと思ってたけど、そうじゃなくて。
サビで歌詞が聴こえなくなっちゃったら、迫力って実は落ちてる。
だけど、ドンってくるのはやっぱり…。
Kei:
しっかり思いが届いた瞬間。
ガジャG:
思いが届くように演奏するっていうことが、やっぱり今も重要だなっていう風に今は思って。
ライブで詰めに詰めた曲をなんとか今年は音源化したいですね(笑)。
三浦剛:
そろそろ出そう(笑)。
ガジャG:
前にレコーディングした時から随分経っちゃったんで。
今、デモコレクションっていって、もう本当にデモみたいなやつを、CD-Rでライブ会場に持ってったりはしてるんだけど…音源作りたいです(笑)。
…いや、もう随分話しましたね(笑)。
ほぼ喋ってます(笑)。
聞こうと思ってたことはリストアップしてたんですけど、全部言っていただいた(笑)。
りつフラワー:
週7で練習してたって話が好きです(笑)。
週7…。
ガジャG:
もう最初は部活の延長だから(笑)。
(笑)
りつフラワー:
バスケの(笑)。
ガジャG:
本当にそう。バスケの部活の延長なんで、本当に週7で集まって。
月曜日から木曜日までスタジオ入って練習して…
Kei:
金土日ストリートライブ(笑)。
三浦剛:
やっぱバスケ部で厳しい練習を乗り越えてるから、週7練習も苦じゃなかった?
ガジャG:
苦じゃないっていうか、逆にそうやってやるもんだと思ってた。下手だったし。
Kei:
やっぱりみんな下手だったのが良かったのかも。
誰か上手くてとかだとあれなんだけど、みんな下手だから。
ガジャG:
そもそも俺らがやってたぐらいのレベルだから。
父に教えてもらったのが、やってたのレベル(笑)。
最初のスタート地点。
Kei:
で、5人で集まった時にパート決めるのに、“俺ボーカル”とか、“俺ギター”とか。
りつフラワー:
早い者勝ち(笑)。
Kei:
パートは決まったんだけど、誰も楽器を持ってないっていう状態から。
3ヶ月分の給料握りしめてギターを買いに行ったやつとか。
そしたら楽器屋の店員に、すぐ辞めるから安いギターの方がいいですよって言われて、“この野郎絶対やめないぞ!”と思いながら買ったギターが10点セットぐらいの激安セット(笑)。
で、そいつにギター弾かせたらセンスがないかもって。
で、6弦よりも4弦の方がいいんじゃないのってベース弾かせたら、水を得た魚のようになったっていう。
りつフラワー:
すごい初期衝動の話。
ガジャG:
もう怒涛のごとく喋ったね(笑)。
りつフラワー:
映画みたいでしたね!
うん、すごかったです!多分これ2万文字超えてるかもしれない(笑)。
りつフラワー:
2万文字!(笑)
ガジャG:
よきようにしていただければ(笑)。
Kei:
ぜひタイトル、”会長と書記”でお願いします(笑)。