バディットマガジンWEBばん!で
イチオシのアーティストを紹介し輪を繋いでいくコーナー
✨✨アーティストのわ ✨✨
今回は、竹中悠真さんからの繋がりで
近田 大輔 さん
を ご紹介します!
(竹中悠真さんのインタビューはこちら)
近田大輔インタビュー
近田大輔プロフィール
カモネギーリーダー。
愛媛県佐田岬半島出身。高校時代から音楽活動をスタートさせ、様々なジャンルでバンド活動を経験する。
自身が作曲を担当するバンドで、さいたま市主催タケカワユキヒデ氏プロデュース「The登竜門」グランプリ、柏市主催「音街っく天国」グランプリを受賞。
その後、満を持して作詞・作曲・ボーカルをつとめるバンド「カモネギー」を結成。
強力なサポートメンバーを得て、制作&演奏活動を展開中!
「最初にギターを触った時から、まず曲を作りたいと思いましたね」
ご出身が四国の愛媛県だそうですが、
愛媛のどの辺りですか?
愛媛のね、九州に突き出してる
佐田岬半島っていう所です。
アジやサバが美味しい所で。
いいですねぇ、関あじ、関さば(※)…。
(※ 大分県の佐賀関半島と愛媛県の佐田岬半島に挟まれた海域で獲れるアジやサバのうち、大分県に水揚げされたものが「関あじ」「関さば」、愛媛県に水揚げされたものが「岬(はな)アジ」「岬(はな)サバ」と呼ばれる。)
改めてカモネギーのアルバムをサブスクで聴き直してみました。
ロックがベースだと思うのですが、
ロックの他にもカントリー、パンク、メタル、ファンク、ボッサ…
いろんなジャンルの音楽を取り入れていらっしゃいますね。
そうですね。カモネギーは僕がリーダーのバンドで、
その時々で参加できるサポートメンバーとライブをやるスタイルです。
小さなライブバーだとギターと二人でやったり、
ピアノが入ってトリオでやることもあれば、
ライブハウスではベースとドラムが入ったりとか、
アコースティック編成でパーカッションになったりとか、
割と自由にやっています。
もちろん僕一人でやることもあります。
作詞作曲をやってる僕がいろんな音楽を好きで雑食なので、
そこから出てきたものがカモネギーの音楽性になっていますね。
なるほど…その辺りの音楽的ルーツは気になりますね。
それでは、音楽を始めたきっかけや、
好きになったアーティストなどのお話から順番にお聞かせ頂けますでしょうか?
自分が初めて親に買ってもらったCDを未だに覚えているんですけど、
小学生の時、父がコンポを貰ってきて
「好きなCD買っていい」って言われたんです。
その時のCDが、
ドラゴンクエスト 1、2、3 の総集編でしたね。
すぎやまこういち先生ですよ。
いわゆるポップスやロックに目覚めたのは
中学に入ってからだと思います。
ちょうど時はバンドブームの頃で、
仲良くしてくれてる先輩とかの集まりに行くと、
そこで BOØWY とかブルーハーツとかがかかっていて、好きになって。
それで、友達が持ってるギターを借りたりとかして、
カバーというか、演奏を始めたんです。
一番好きだったのはユニコーンですね。
コピーやカバーもユニコーンからですか?
ユニコーン結構難しいんですよ。
最初の練習はそれこそフォークソング、
ガイドブックに載っていた長渕剛さんとか、井上陽水さんとかで
ギターを覚えたのが最初の体験ですね。
高校に入ってから、よくある話ですけど
バンドをやろうという話になって、
エレキギターを買って貰いました。
最初のエレキはどんな楽器でした?
ストラトでした!
メーカーはどうだったかなぁ…。
高校の時のバンドではどんな曲をされていましたか?
もうオリジナル曲を作ってました。
周りのメンバーはどちらかというと
やっぱりブルーハーツやりたい、という感じで
学園祭ではカバーのバンド演奏してましたけど、
自分の中では作曲の方が好きで、
もう曲を書いていましたね。
何曲かはバンドでオリジナルもやっていました。
最初からオリジナル曲って、
ちょっと珍しいかもしれないですね。
そうですね。
でも中学1年、2年だったと思うんですけど、
最初にギターを触った時から、
まず曲を作りたいと思いましたね。
チューニングも分からない状態でしたが
音が鳴った時に、指をずらせば旋律になるじゃないですか。
だから、どっちかというと
カバーやコピーをするのは
コピーをやりたいというより、
楽器の弾き方を覚えるためでしたね。
あと当時、存在が大きかったのはラジオでした。
中学生くらいの時、自分の部屋で夜な夜なラジオ聞いてると
常に音楽が流れていて、それを凄く好きになって。
当時の流行りや、もっと前の歌謡曲、洋楽も含めて、
割と早い段階でジャンル関係なく聞いてた感じはありますね。
今はYouTubeでムーブメントとか関係なく
いつでも情報を引き出せるじゃないですか。
当時はどっちかというと
与えられた情報に乗りやすかったけど、
ラジオはその中でも割と幅広かったというか。
もちろんラジオでも、売り出し中のアーティストを
ガンガンにかける事はありましたけど、
それぞれの番組でパーソナリティの好きなアーティストや
古い音楽をかけるような幅広さはありましたよね。
当時のラジオ番組の自由さというか、カオスさというか…。
そうそう、そういうのがあったから
音楽聴き初めの頃から
いろんなジャンルを聴くようになったんだと思います。
高校生くらいになると洋楽にも興味が行き始めて、
当時流行っててハマった洋楽が
ニルヴァーナとかレッドホットチリペッパーとか、
いわゆるミクスチャーとかグランジとか言われている音楽で。
ファンク色はその辺りから来ていたのですね。
音源を拝聴すると、様々なジャンルの美味しい所取りをしている上に、
“カモネギー”の色を感じるんですよ。
メロディーは日本の音楽で、日本のロックの色合いもありつつ
洋楽のかっこいい要素もしっかり入っていて。
本当に、ロックからボサノバ、ワールドミュジックから
それこそ黒人音楽からクラシックまで、
音楽ジャンル関係なく好きなので
自分が作る時には色々混ざって…
でも最終的には日本語で歌うので、
J-POPというか歌謡曲っぽい形でまとまっているかもしれませんね。
演奏に関しては、メンバーの存在も大きいです。
うちのメンバーもみんなルーツが別々なんですよ。
ギターは元々メタルでしたし、
ベースはポップスで色々仕事してますし、
鍵盤はバリバリのジャズアーティストで。
そういうのもあって、
僕が好きなアーティストを集めた感じなんです。
みんなバックボーンが違うんですけど…
でも、音楽は音楽ですからね(笑)。
しかも皆さん、それぞれのジャンルの美味しいところを
バッチリ狙って演奏なさっていて。
そうなんですよ(笑)。
〜自分の音楽に責任を持って〜 カモネギー誕生秘話
カモネギーを始められたきっかけをお伺い出来ますでしょうか?
20代から30代くらいの頃、
当時はアレだったじゃないですか。
“メジャーでやってこそナンボ” じゃないですけど
みんなそれを目指してバンド活動していて。
当時は “20代じゃないとデビュー出来ない” みたいな
今考えるとすごく狭い固定観念があって。
30代前半に組んだバンドがラストチャンスだと思って
一生懸命やっていたんですけど、それが空中分解しちゃって、
これで潮時かな、とも思ったんですけど…
でもやっぱり、音楽がない生活っていうのは
自分の人生じゃないなって思って、
その時に一人で弾き語りを始めたんです。
もともとコーラスをちょっとやるギタリストだったので、
最初は歌いながら弾く事自体が難しくて、
それまで調子こいていたのが、
ソロライブの後“こんな事も出来ないんだ”って
泣きながら帰ったりしてました。
でも、1年くらいである程度声が出るようになって、
その当時付き合いのあったメンバーを集めて、
バンドをやりたくて組んだのがカモネギー。
ちょうど10年くらい前です。
一旦バンドが解散して、一人で歌い始めて、
またもう一回バンドをやりたいと思って組んだバンドなんです。
ソロユニットのような“サポートメンバー”という
形態を取っている理由はどのようなものなのでしょうか?
自分の活動を人に依存したくなかった、というのがあります。
前のバンドではみんなフラットな関係なのですが
役割として僕が作曲、歌う人が作詞っていう形で、
誰かが欠けると活動できないんですね。
自分が曲を書くんだったら、
まず自分で歌って表現出来ないと、
何かがあって活動出来なくなった時に、
人の都合で音楽ができなくなる。
その事自体が嫌だと思ったんですね。
それで、下手だろうが何だろうが、
自分が書いた曲に歌詞も書いて歌う、というのを始めたんですね。
その時に、みんなが対等なバンドっていうのを一旦やめて、
自分がやりたいことを、僕がリーダーとして責任を持ってやる、
最終的に周りが離れていくなら一人でも出来るっていう意志の元に、
好きなメンツを集めていく方が、
自分がやりたい音楽が出来るって思ったんです。
僕はやっぱり、弾くのも歌うのも好きなんですけど、
作曲するのがまず一番好きなので、
自分の作った曲をやっていく時に、
自ずとある程度リーダー性がないと出来なかったんです。
対等であることが行き過ぎて、やりたい音楽が食い違ったり…。
そうなんです。みんなやりたい音楽があるし、
やっぱりミュージシャンの特性ってあるじゃないですか。
僕みたいに、曲を書いて“こういう音楽をやりたい”っていう人間もいれば、
人が作った設計図を実際に作ったり、足りないものを足す事が好きな人間もいたり。
今のメンバーって、
自分がリーダーの時はリーダーの役割をするし、
サポートの時はそれぞれの役割を、
何をどこまでやれるのかっていうのを
いいバランス感覚で楽しんでやってます。
かといって、馴れ合いとかじゃなくて、
音楽を良くするときに、一人ひとりが独立して
認め合ってるといいますか。
皆さん自立していらっしゃるという事ですね。
そうなんです、それが大事だったんですよね。
僕もやっぱり若い時はメンバーに依存したりとか、
それで本質が見えなくなったりとか振り回されたりとか、
そういった経験があったので、今のスタイルがあります。
サポートメンバーの皆さんも、
ご自身でリーダーも出来て曲も作れるような方ばかりですね。
僕もたまに誰かのバックでギター弾いたりするんですよ。
あれはあれで楽しさがあるんですよね。
そういう時の楽しさと、自分でリーダーをやる時の楽しさを
両方やってると依存なくやれるんですよね。
うちのメンバーは皆そういう感じだと思いますよ。
僕最近、女性のアーティストに楽曲提供もやってるんですよ。
そういう時って、また違う感覚なんですよね。
普段のカモネギーで曲を書いている時とまた違う、
解き放たれた感じというか。
いろんな楽しみ方がありますね。
どんな曲を書かれているんですか?
今の所は、シティポップみたいな曲ですね。
髙橋祐子さんっていう方で、
シングル2曲出されてるんですけど、
両方とも作詞作曲やってます。
実は、バックで演奏しているのはカモネギーで(笑)。
今、自分のプロジェクトにプラスして
一生懸命やっているプロジェクトなんです。
カモネギーとはまた全然違うテイストですね。
好きに作って良いって言われたので
僕の好みも大分入っています(笑)。
楽しんでやらせて貰っているプロジェクトですね。
今後が気になりますね!
〜もうお前の音になってる〜 思い出のギター
現在使われている楽器についてお伺い出来ますでしょうか?
ヤイリのアコースティックギターです。
これは、元々僕のギターじゃなかったんですよ。
前のバンドで僕、すごい安いギター使ってたんです。
で、バンドメンバーの友人がヤイリの良いギターを持っていて、
上手くなるには良いギターを使わないとダメだよ、って
当時使っていなかったギターを貸してくれたんですよね。
良い音するから、半年くらいこれ弾くといいよって。
それで、半年は過ぎて返そうとした時にその彼が
“これダメだ、もうお前の音になってる”って。
“これはもう俺の音じゃない、あなたの音になってるから
あなたが今後も弾いてください”っていう風に、
すごい安い値段で譲ってくれた思い出のギターなんです。
へぇ〜! どんな感覚なんでしょうね。
私、キーボード中心だからその感覚が全然想像つかなくて。
彼はギターやバイオリンにも精通していて、
尚且つそういう感覚が鋭い人なので、
感じる所があったんだと思います。
この娘はもう君のものです、貴方が愛してください、みたいな(笑)。
もしかして、最初から近田さんにお譲りするつもりだったのでしょうか…?
良いギターなので、僕にはちょっとわからないですね。
もしかしたら、そういう予感があったのかもしれないし、
瞬発的にそう思って言ってくれたのか、
真相は本人にしかわからないですけど…ただ、
僕にとっては凄く印象的な出来事でした。
楽器に携わるってそういうことなのか、と思ったり、
嬉しかったり。
もうずっとメインギターとして愛用しています。
モデルはアルバトロスで、
元々海外向けの製品を逆輸入した形の製品ですね。
凄く好きなギターです。
作曲のツールはどのようなものを?
昔はデジタルパフォーマーを使って作曲してたんですけど、
今のカモネギーになってからは
スマートフォンに弾き語りで歌って録るだけです。
今のメンバーは、大体どういう風にして欲しいのか
1回のスタジオで意思疎通が出来るので、
わざわざ時間かけて(デモを)作り込まないですね(笑)。
疑問があるとその場で聞いてくれるのと、
あとはライブをやっていくうちに掴んでくる感じです。
なんか皆さん、サポート以上にバンドメンバーっぽいですね(笑)。
そうなんですよ(笑)。
長いとね、そういうことが出来るようになってきて。
でも有難いです。
「忘れてしまうようなものを、パッケージ出来る」
サブスクでアルバムを二つ出されていますが、
そのお話もお聞かせください。
『浜辺にて』のジャケットの画像は…?
あの絵は、僕の田舎の写真です。
本当に、散歩をしててスマホでパシャっと撮った写真が元ですよ(笑)。
海辺のイメージのアルバムでもありますので。
インスト曲の「遠い場所」が
デジロック調といいますか、いわゆるバンドものとは違うのですが、
バンド感もあって印象深いサウンドでした。
そうですね。テクノとかもすごい好きで、
打ち込みも好きで色々やってた時期があるんです。
あれは昔に作った曲で、気に入っててアルバムに入れたんです。
『異邦人との夜』のジャケットも彫刻みたいなデザインで印象的でした。
看板と言いますか、お話の表紙といいますか。
あれは、メンバーの 齊藤 慧 が
ジャケットデザインやってくれたんですよ。
良いデザインを作ってくれました。
音楽って、作るのも演奏するのも楽しいですが
感じた事や美しかった瞬間とかを
自分なりに形に出来るっていうのがいいですね。
忘れてしまうようなものを、パッケージ出来るじゃないですか。
そういうものだと思ってやっています。
カモネギーを始めた頃は
やっぱり評価されたいとか、売れたいとか、
邪念とまでは言わないですけど、
そう言ったものがモチベーションの中心にあったりしたのですが、
最近はまたどんどん感じ方が変わって、
勿論売れたり大きな舞台でやりたい事を諦めてる訳では無いですが、
またそれとは別に音楽する事自体に対して
より素直になって来てる気がします。
聞いてくれる人がいるわけですから、
表現したいものを、ちゃんと伝わる形で。
自分の中から生まれてくる歌詞や曲を、
なるべく余計なものを取っ払って素直にやって行こう、
っていう形になって来てますね。
改めて“作曲”が軸にあるのだなと感じました。
10代の頃に出会って、感情を揺さぶられて、
そして表現するコンテンツがたまたま音楽だったと思うんです。
その時感じたものとか、見た風景とか、悲しい事も含めて、
何か綺麗なものとして結晶化して、
聞いてくれた人に何かしら伝わって
共感してもらえれば嬉しいですね。
9月から隔月で、ギターの尾上主催のイベントを
四谷 Doopo で計画しているんです。
そこをカモネギーのライブ活動の中心にして行く予定です。
今、新しいアルバム作ってるんですけど
歌詞とか書き直したりしているんです。
校正を重ねて、本当に納得した形で出したいなと。
今年(2024年)か来年の頭には出したいと思って、今動いています。
次回のアーティストは・・・
近田大輔さんインタビュー、
いかがでしたか?
忘れて行ってしまう思いや感動を
楽曲としてパッケージ…素敵です!
アーティストがイチオシアーティストを
紹介して繋がっていく
『 アーティストのわ 』
次回は、インタビュー中にもお話が上がった
髙橋祐子さん
を予定しています!!!
お楽しみに✨✨✨